「あずさの元禄繁盛記」中島梓(読売新聞社)


井原西鶴と元禄という時代について、が一応のテーマですが、結局はいつもの梓ねえさまの本です。書きたいこと書いてはるわ(笑)。八百屋お七を究極の「少女」という存在とし、現代の追っかけの少女について語った文やそれに絡めて「過剰な愛」に生きるひとびとについて触れた文が面白かった。
 しかしながら中島梓の一連の評論を読むといつも思うのだけど、このひとはそういう「アイデンティティを求める必死の欲求としてなにかに「取りつく」少女」という存在がいけない、と云っているわけではないのよね?でもそれはいずれ卒業するもので、現実の男性と出会い恋愛をすれば、やがて少女は少女でなくなり、主婦となるか、時を止めて40歳の追っかけとしてパラノイアックに生きていくしかない(ずいぶんひどい云い方をするものだ)、と云うのね。それってなあ。私は、どう考えてももう少女という歳ではないけれど、そういう考えにはどうもなあ、と思わずにいられない。そもそも結婚して主婦になったていどで満足できるアイデンティティを得られるレベルのひとは、本物のオタクではないと私は思う。恋愛したって結婚したってこどもを産んだってオタクはオタクだ。そんな例はいくらでもある。
 なんていうかな、世の中には生まれつき、そういう人種がいるのである。いつでも精神の糧に飢えている人種。うたかたの夢や過剰な感情のうねりが生きていくのにどうしても必要な人種。それは現実の恋愛相手に恵まれない、なんてことではなくて、むしろ10代後半から20代といういわゆる繁殖適齢期に現実の恋愛をすることにより、初めて自分の飢えの本質に気づくひとが多いのではないかなあ。もちろんそこで幸せになって、気がついたら同人誌とかやおいとかおっかけにそんなに興味がなくなっちゃった、というんならそれはそっちのほうが絶対に良いことなんである。現実の恋愛の旨みを知ってそれでもなおかつこのうたかたの夢が私には必要なんだ、と云い切れちゃうことはきっととても可哀想なことである、とも思う。でもそればっかりはしょうがない。わたしたちがこの崖っぷちに立つことになった理由は、きっと誰にも分からないことなんだから。むしろ崖っぷちに立っているという自覚をもつことにより、かえって身軽に遊ぶことが出来るという考えもあると思うの。
 だいたい、未だにJUNEたるものを捨てられないでいるこのひとこそ、いまだに「アイデンティティを求める必死の欲求としてなにかに取りつく」少女でい続けているのでは。それはなぜ?とりあえずその答えは、この本から得ることはできません。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする