「グインサーガ(1)?(73)」栗本薫(ハヤカワ文庫)



 夜、グインサーガをひたすら読む。とりあえず今夜は五巻「辺境の王者」まで。ほとんどのシーンをはっきり覚えているなあ。ノスフェラス篇はやっぱり面白いなあ。アルフェットウ。
 以前読んだときは高校生だったけれど、その時と違った印象を持ったのはアルド・ナリス。昔は嫌いで嫌いでしょうがなかった。当時からいわゆる綺麗系には興味がなかったし、このひねこびた性格が、フケツッイヤッキブンワルイっと思っていた。このひとが出てくる場面はひたすらご立腹で読んでいたような気がする。 なによりもわたしはリギアやアムネリスという女性キャラが好きだったので、いくら顔が綺麗だろうが物腰が優雅だろうが、なんでこんな嫌なヤツにみんながああナリスさまルアーの化身あなたさまの髪の毛一本傷つけようものならその者を生かしてはおきませぬになるのかがさっぱり分からなかった。結局わたしは今西良より森田透なのです(栗本ファン以外には分からない例えでごめんよう)。
 でも、それなりの年月がたったいま読むと、なんか、分かりますね。アルド・ナリスというのはそういうひとなのだ。当時、わたしはアムネリスが可哀想で仕方なかったけれど、かれのたらしこみかたというのを、まったく非難できない自分がいるというか…そういうのが有りだということがまあ分かるくらいの人生経験は積んだというか…いやその(笑)。ナリスというキャラがお気に入りになることはあり得ないにせよ、なんか分かるんだよなあ。大人になったなあ(笑)。あと、キャラクター全員をとても若く感じました。当たり前か、ほとんどがいまのわたしより年下なんだから(遠い目)。そして、昔と変わらなかったのは九巻「紅蓮の島」でのミアイル公子の哀切なエピソードへの印象。泣いた泣いた。昔も泣いたが、再読してもやはり泣けた。たしかに大衆演劇なんだけど、お涙頂戴もいいとこなんだけど、でも泣いちゃう。悲しい歌で涙が出るけど聞きたいんだ、とミアイル公子が「白鳥の歌」をマリウスに求めたように。というところで今夜はおしまい。
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 11巻「草原の風雲児」から15巻「トーラスの戦い」まで。読んでいくうちに、物語世界に引きずり込まれて、自分がいまいる場所も分からなくなるようなあの感覚を久々に味わいました。早くケイロニア篇に行きたいな。グインに逢いたいな。しかしここまではほぼ記憶通りの面白さ。本当にこれが噂通りの展開に変わっていくかと思うと…(滅)。
 グインサーガは基本的にそんな複雑な話ではない。凝った仕掛けがあるわけでもないし、奇抜な発想もとくにない。ただ、そこにいる生きたキャラクターが、自分とはなんであろう、自分の属する世界とは、という感情のままに生きて、そして運命に翻弄されている。それらすべてを統括するのは、ただ壮大な時間、時のながれというもの。そういうお話だと思うのですが。さて、ここからどうなっていくことか。
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 適当なところで一度やめるつもりが、ケイロニア篇に入ってしまったもので面白くて止められない。一気に30巻「サイロンの豹頭将軍」まで読む。しっかり。とにかくグインが良い、カッコいい。ああ、わたしは本来はこういう殿方が大好きなの。無骨でぶっきらぼうで強くて、でもそのくせ凄い殺し文句を平気で吐いて(30巻のラスト「あなたがいたからだ」ってすごいっす)乙女と生まれたからには一度こういう男に剣を捧げられたいもの(笑)。
 しかし、ここにいたって、あちこちで文章がおかしいところや、語句の使い方が不自然なところ(いくらなんでも「ホーリー・チャイルド」はないだろう…)が目に付きだしたな。そして恐ろしいことかな、グラチウスって29巻の段階でグインのことを「宇宙人」とか「ロボット」とか云ってるのね。ひええ。わたしにとっての栗本薫は、悪文だけど不思議に読みやすい文章を書く人だから細かいところは気にならないのだけど、一つの文で視点が入れ替わるのはどうかな…。
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 しかしそう云いながらも、グインサーガを読んでおります。いまは44巻。実はイシュトヴァーンとアムネリスのロマンスはともかく、砂吐きもののナリスとリンダのウェディングのあたりで、ずっと止まっていたのだ。それをなんとか読み流して、ケイロニアに舞台が戻ってから、以前のペースで読めるようになりました。シルヴィア救出篇に入ってからは止められません。やっぱりグインが好きなのよ。パロ篇はホントにつまんないのよ。なんとかしてくれっていうほどに。ナリスファンって、こういうナリスはオーケーですかい。あたしゃこういうリンダはシルヴィアよりも頭が悪いとしか思えません。そういう風にひとが変わってしまったのだ、というのならまだしも、なんだか作者ご自身が「これでいいのだ」と思ってるんじゃなかろうかというあたりがとくにイヤです。思ってなきゃ、あのバカップルのロマンスに二巻も三巻も費やせないでしょうから。だいたいあたしは「生まれながらに選ばれしもの」とか「高貴な青い血」とかいうのが好きでない。その設定に支えられたキャラクターが、それだけの惹句に相応しい存在でなければなおさらに。たしかひかわ玲子だったかな?日本のヒロイックファンタジーでは、いわゆる貴種流浪モノが、読者にずっと受け入れられやすいと云っていたのは。それを読んだとき、どうして自分が日本のヒロイックファンタジーって読む気がしないのか分かった気がしたものだ。ファンタジーは大好きなんだけど。佐藤さとるなんて全集まで読みました。
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 お友達からの一言。「そういえば、あの虎男ってどこまで読んだの?」
 グインサーガのことでしたら、勢いがついて止まらない。現在62巻です。くさてるん、二日前の日記で44巻って書いてるじゃないか。しかしこの勢いにはからくりがありまして、いやしくも読書好きをもって任ずるような人間ならば邪道としか云えないことをあえてやったのだ。ええ、途中の何巻かを飛ばしました。もちろん云うまでもなく、パロ篇です。文庫本の裏に書いてあるストーリー概説だけでけっこうだよ、だってつまんないんだもの。わたしはどうしてもナリスのやること云うことひととなりが燗に障って仕方がないので、読むのをあえて放棄して、ゴーラ篇に逃げ込んでみたわけ。そしたらここにもナリスとヴァレリウスのなんともはやなやおいとしても古くさいというか(あ、栗本薫はヤオイって書くんだよネ!そこらへんがまた以下略)大体作者自身がヴァレ×ナリだと思っているのが見え見えで興ざめというかナリスはどう考えても攻めだろうとか(ごほんごほん)色々なことを考えずにはいられない一幕があったりして、かなり辟易としたわけですが。にしても、ヴァレリウスー、わたしの知ってるキミは何処へいってしまったのー(空しい呼び声)。
 とりあえずグインもそろそろ本編に戻ってきそうだし、イシュトも無事ゴーラ王になりそうだし、となんとなくこの長い物語の全貌が見えてきた感じもあるわけだ。まだ終わってもない話にこういうこと云うのはなんだけど、その全貌がなんとも「…これっすか?これで終わりっすか?!」と愕然とするようなものでなければいいなと思う。とにかく、グインが宇宙人ネタだけは勘弁してくれよーなんです。SF仕立ての部分を入れることに関しては文句はないけど、そこで使われる語句とか概念がいかにも古くさいSF、あざといくらいのやりかたなんで…一歩間違えれば、トンデモファンタジーの仲間入りをしてしまうかも。もう仲間だとはまだ云いたくありません。まだ。
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 グインサーガはなんとか最新刊(73巻)まで読み終えました。ここまでの感想を云うのなら…うーん、これっぽっちの話なの?本当に?というところ。グインの正体がナリスとスカールの会話で明かされる(推測とはいえ)なんて、盛り上がらないもはなはだしいよね。しかもこれが安っぽい正体なんだ。そりゃそうかもしれんが、それで筋は通るかもしれんが、えー?マジっすかっていう感じの。また現在ラブラブ状態であるところのグインとシルヴィアが外伝「七人の魔道士」(すっごく好き)で描かれるところの冷え切った関係にどうやったらなるかってことに関しては、下世話な話ですが、やっぱり初夜の晩にグインがシルヴィアを抱けなかったからってことになるんでしょうね。グインのシルヴィアへの気持ちが、男が女を愛するような気持ちではなく、親が子を想うような気持ちであるっていうのは、オクタヴィアにもハゾスにも指摘されていることだし。しかしそれでシルヴィアが売国妃となり、狂気のゴーラ王となったイシュトヴァーンがケイロニアに攻め込み、パロを闇の王国に変えたレムスがそれに加わり、というグインサーガ本来の展開になるまでに、あとどれほどの時間が必要なんでしょうね。でもやっぱりこれは100巻レベルの話だよ。物語自体がそのレベルの広がりなんだと思う。豹頭王のサーガとしてはそれぐらいが適当でしょう。
 それが100巻で収まらなくなってしまいそうな原因のナリっちに関しては、あたしはその昔、他ならぬ中島梓(栗本薫)先生が、精神分析学者の木田恵子氏と対談していたときの発言を思い出します。「赤ん坊が泣き声だけで大人を支配するように、本来か弱いはずなのにその存在だけで他人を支配する、そういう主人公を書くのに一時凝っていたことがあります」…先生、それ、今現在進行形っスよ!

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