「雪国」川端康成(新潮文庫)



 なんでまたこんなものを、と思われそうですが、帰省の際に退屈だろうから、こういうときこそ文学をと思って手にした一冊です。
 冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」だけは、有名なのであらかじめ知っていました。で、この文章だけでなんか難解な印象を受けていて、敬遠してたわけです。純文学とか苦手だし、あえて読むものでもないって漢字がするじゃないですか。でも、いざ小説の冒頭として読んだときには、この一文がするっと頭に入った。目の前にその文章が意味するものが広がったようで、やはり実際に読まないと分からないことはあるのだなと思ったのです。で、読み進めていったわけですが。
 正直、昔の小説にありがちな「だからこの主人公はどうやって食ってるんだ」的な、いわゆる高等遊民ぽい島村には、あまり好感も持てなかったし、駒子というひともよくわからない。あえて書かないこと、わざわざ描写しないこと、説明しないことがたくさんあって、それらが、これを男女のお話として考えるときに、余計に重要な気がしてもどかしい。「雪国」にこういうこと云うのって、自分がかなり頭悪い気分がしますが、駒子の聞き違えってなんなんでしょうか。それともこれは男女のお話ではないのかなあ。わたしがバカなのかしらん。いじ。
 しかし、使われている日本語は、とてもみずみずしく、美しい。この、大きな波乱があるわけでもない話を、わたしがぐいぐい読むことが出来たのは、この日本語のおかげだ。ああ、本当に巧いひととはこういうことをいうんだなと思ったり。いえ、ノーベル文学賞だと知ってます。いまさらすみません。
 でもまあ、話としてはそう派手なこともなく、時代的にも現代とは遠く離れて、ここに書かれているものを我が身に置き換えて恋愛のときめきを感じるひとも少なかろう作品なんでしょうが、読み終えて、なんともいえない読後感に襲われましてね。不思議なんだけど、作品に用いられた感覚の、ひとでなさというか、残酷さというか、そういうものが底にあるような気がして。単に島村が冷たい男だとかいうだけじゃなくて、ラストの駒子の叫びにあるなにかが、気になって仕方ないわけです。その言葉の意味じゃなくて、そこからわたしが受け取るなにか。うーん、これだけじゃ分からないけど、でも、これはなんだかただものではない匂いがするぞ、という感じがしてなりませんでした。
 そう思ったわたしがとりあえず、次に読んだのが、さらに名作の誉れも高き「伊豆の踊り子」(角川文庫)です。いやあ、これで分かった。結構にとんでもない作家さんなんだ。で、この感想はまた後日。しかしこれだけ有名なひとについてあれこれ云うのって、けっこう緊張するものですね。文学部のひととかがこのサイトを読んでませんように(笑)。
 

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