「翻訳夜話2 サリンジャー戦記」村上春樹・柴田元幸(文春新書)



 サリンジャーといえば「ライ麦畑でつかまえて」(白水社)ですが、最近、それを村上春樹が翻訳し直した版が出てることは知ってました。で、それを手に取ったときに、訳者解説くらい読んでみようかなーと思ったものの、なにもついてなかったのですね。それは契約の都合上らしいのですが、ふーん、と思って、そのときはそのまんま。しかし、先日たまたま本屋でその載せられなかった解説が掲載されたこの本を見つけたわけです。
 わたしは「ライ麦畑でつかまえて」という小説について、そう思い入れがあるわけではありません。なんでも青春文学だそうなので、こどものうちに読まなくてはいけないのだろうと、まさに背伸びばかりしてたこどもだった中学生の頃に読んで、全然ぴんと来なかった記憶がある。最後の回転木馬のシーンしか覚えてない。この本のなかでも、「ライ麦」はそういう青春の通過儀礼的な一冊として扱われていて云々と語られていたので、なるほどと思いました。なので、「ライ麦」自体の記憶もあやふやなわたしなのですが、ここで翻訳家としての二人が語り合う「ライ麦」は、えらく深みがある面白そうな小説ではないですか。記憶と違うな。
 それはともかく、村上春樹が、小説のテクニックとしての「ライ麦」の巧みさと、小説を解き明かす面白さをえんえんと語っているのが、とても面白かった。小説に込められた意味がそれを読む人の感性を媒介として呼応しあい、それが身体に残ること、そしてそれを言葉で説明することはとても難しいということ。その困難さというのは、わたしも良く感じます。語るとしたら通り一遍の言葉に変換するしかないんだけど、それだけでもなにか違うと思うあの感じ。だから「とにかく読め」みたいな云いかたにしかならないこともあるわけで、すぐれた物語とそうでない物語の違いは、いくら文章のテクニックとか小説作法のレベルで語ったとしても、それだけではない。むしろそこからこぼれたことのほうがずっと大事なのかもしれない。それについて、「ライ麦」が小説として大変巧みに出来ていることを断言しながらも、それだけじゃないんだよと言わずにいられない村上春樹が面白いなあと思ったのです。
 あと、作者のサリンジャーについても、わたしは単に「世捨て人」くらいのイメージしかなかったんですが、かれが第二次世界大戦で兵士だったこと、そのPTSDが「ライ麦」にも現れているという指摘は、初耳でした。戦争自体を語らずとも、その影響が浮かび上がることが確かにあるのだな。そして「ライ麦」のなかには、現在のかれの世捨て人な状況も示唆されていることも知った。
 そこでちょっと面白かったのは、アメリカでは世間から離れてひとりで生きようとしたら、社会に決別するしかないんだという指摘。町や村の一角で静かに過ごすやりかたではなく、まっこうから行動や言説によって社会を否定することが必要になるのだというあたりは、もしかしてもう古い感覚かもしれないけど(アメリカにだってひきこもりはいると思う)、日本との違いを感じさせました。しかしそんな風に、個人的マニフェストを常に要求される世界は生き難いだろうなと常にふらふらと生きるわたしなどは思います。どこまでもデラシネでありたい。

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