「私とハルマゲドン」竹熊健太郎(ちくま文庫)



 再読。竹熊氏といえば「サルまん」以外は、一連のエヴァンゲリオンに関する文章くらいしか読んでいないわたしですが、この一冊に関しては、単行本で発行されたときから気になりながら見失い、文庫化されたときに入手しました。
 オウム真理教という事件と、そこにある信者の心性について、自分史を語りながら解きほぐしていった一冊です。「オタク文化論」という風に評されているけれど、わたしには、その表現は他人事すぎるように感じます。この本の中で、竹熊氏は赤裸々に自らの20代の彷徨と迷いを語り(そのなかには数々のドラッグ体験も含まれます)、たびたび、オウム真理教を信じ「出家」した若者と当時の自分には、たいした変わりが無かったはずだと云います。では、その両者を分けたものはなんだったのか?
 わたしは、こういういわゆる「オタク」のひとたちが、様々な社会事件(80年代に起きた埼玉の幼女連続誘拐殺人事件が代表ですが、わたしは、多くの女性のオタクにとり、佐世保の女子小学生による同級生殺人はある種の衝撃だったんじゃないかとずっと思っています。もちろん、わたしもそのひとりで、未だにあの事件に関して感じた気持ちをうまく文章化する自信がありません)に胸をつかれ、我が身に置き換えその事件を解読していく文章に興味があります。それはそのままわたしもオタクであることが理由ですが、なによりも、そこに「わたしがここにいる理由」「かれらでありわたしではなかった理由」が見つかるのではないかと思ってしまうのですね。実際には、わたしはわたしであるのだから、そんなものは自分自身で探すしかないわけですけど。せめてもの手がかりを求めて。
 竹熊氏も、オウム事件の報道を「自分の過去からの逆襲」のように感じ、改めて自らの過去を語ることにより、その気持ちを整理しようとします。そして、15年前にかれが心酔していたXという人物との再会と新たな語らいによりたどりついた結論らしきものは、はっきりと明確なものではなく、しかし、ひとつの答えではあります。やっぱり、ひとは自分で自分の責任を負うしかないのだと。逃げずに生きていくしかないのだな。そして(世間一般の通念とまた違い)オタクであることがすべてそのまま逃げとイコールになるはずはない。なので、わたしはいまの自分のままで、生きていたいです。

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