「エンガッツィオ司令塔」筒井康隆(新潮文庫)


 
 筒井康隆を初めて読んだのは、まだ小学生のときだったかな。兄の本棚から抜き出した星新一で日本SFに目覚めたわたしは、とりあえずそのまま筒井康隆に手を伸ばしたのだけど、エッセイはともかく小説はよく分からないものが多かった。七瀬シリーズは好きだったけれど(「七瀬ふたたび」で号泣した。いまでもラストの一節はそらんじることができる。あとで作者が「あれはテクニックだけで書いた小説」と云ってるのを読んで、この悪魔、と思った/笑)、いわゆる中間小説誌に掲載されてたような短編は、使われてる言葉からして理解できなかった。色んな意味で子どもでしたから。
 けれど、高校生のときに「虚航船団」を読んで、認識が改まった。最初はとても読みづらかったのだけど、長い物語の最終章に突入したあたりから、小説の文章のリズム自体が躍動しはじめて、物語の流れとともに言葉が加速しはじめる。それが偶然の結果でなく、きちんと計算されたものであることも分かって、その巧みさに驚嘆した。まるで活字がそのままぴくぴくと動いてるみたい。物語の筋でなく、使われている言葉とその語り口のリズムでノックアウトされたというのは初めての体験だったし、その感覚が、再読したときもそのまま甦ってきたことに、さらに感動した。


 というわけで10代以後ずっとリスペクトし続けてきた作家さんです。でも、断筆とかそれ以後の活動とかについていけないときもあって、なんとなく縁遠くなってましたが、久しぶりに手にとってみました。筒井康隆の断筆解除後、初の短編集です。それぞれの感想など。
 表題作の「エンガツィオ司令塔」は、以前CSでご本人が朗読されたのを聞いたことがあります。そのときの印象も強烈ではありましたが、小説で読むとさらに。わたしにはまったくもってこの種の嗜好がなく、むしろ積極的に避けたいような内容なんですが(実際、どうしても読めずに、目で文を滑らせるだけの箇所もあった)、でもまあ「最高級有機質肥料」のひとだし、この内容をこのまま書けるっていうのが才能としか云いようが無い。文章のリズムの良さは相変わらずで、内容のトンデモなさとあいまって、それだけで笑ってしまいます。
 タレント事務所のスカウトマンが、楚々たる外見の美人を見つけたものの、その美女が口を開くと…な「乖離」なんかは、言葉の才能がないと、つまらないワンアイデアの話になってしまうでしょう。でも、そこはそれ、筒井康隆だから。すごいから。絶対に、こういうのを書く人、他にいないから。なんかこう、格が違う。下品の格が(褒め言葉)。ドラッグ作家二人の対談が、片方の暴走によりとんでもない追走劇に発展する「猫が来るものか」には、吹き出して笑った場面があります。小説で吹き出すなんて久しぶりだけど、ここらへんで、いやもう降参という感じになりました。無茶苦茶なんだけど、それがすごいもの。中華風の色合いがする「魔境山水」は、その文章から匂い立つような濃いイメージの確かさに圧倒され、少しずつ噛み砕くように味わいました。一気に読むとね、こぼしちゃう部分が勿体ないからね。中国の山水画のような風景のなか、極彩色の悪夢が広がります。「」は、ただ哀しい。ぼんやりとしてはっきりしない、まさに夢以外のなにものでもない光景のなか、最終的に浮かび上がる独白が、やりきれないせつなさを持って迫ります。「首長ティンプクの尊厳」は、読めば誰でも連想することができる某国の独裁者をモデルにしています。筒井康隆らしいグロテスクさとブラックユーモアに濃く彩られながらも、ところどころに、鮮烈に哀しいイメージがあり、最後の台詞の「小さな」のリフレインに、せつなくなった。
 この本には断筆解禁宣言なんかも収録されていますが、それを読んでわたしがただ思うのは、もう筒井康隆はなにを書いてもいいですよ。筒井康隆だもの。ということ。作家は特権階級なのか、というあたりについては、色々と意見があると思うんだけど、そういうものを書くことがそのまま生きることであるというひとなんじゃないかと。もうこんな作家は出てこないと思うんですよね。その行動や言動に、多少的外れだったり、ズレがあるとしても、このひとのいくつかの作品は残るものだと思うし、貴重な存在だと思う。好き嫌いすら別とさせる(わたしもこのひとの作品で内容、表現的にどうしても読めないものがありますから)して、それだけのパワーがある。希少な存在になった野生動物のような、気高さと野蛮さを感じる。わたしのこの感覚がフェイクかどうか、もう少し続けてこのひとの本を読んでいこうと思います。

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