「敵」筒井康隆(新潮文庫)



 妻に先立たれ、独りで老後の生活を愉しむ元大学教授の老人を主人公に、かれの生活や人生の細々としたことが積み重ねて語られていきます。一見、なんということもない豊かな生活のなかに、じょじょに入り込んでいくこれまでの人生の夢。同時に、かれがのぞくパソコン通信では「敵」の出現についてまことしやかに語る書き込みが…という内容。
 まず、ただ淡々と細かに語られていく老人の生活の描写は、「敵」というタイトルからすると拍子抜けに思われるかもしれません。しかしその内容の濃密さと丁寧な語り口は十分に読み応えのあるものですし、そこに不意に現れる「痴痴痴」という当て字(これはスズメの鳴き声)が奇妙な印象も与えます。かれの生活のこまごまとしたことを読んでいくと、そこにある豊かさに憧れも感じますし、その豊かさが老人のただすり減っていくだけの貯金によって支えられていることが明らかになると、そのリアルさに頷きもします。そんな風に過ぎていく日常のことだけが、こまかに描写されていくなか、すこしずつその焦点がぶれだしていくかのように現れるかれの夢、死んだ妻の声、もはや訪れない友人達の存在が導いていく世界は、とりとめもない妄想に満ちていて、それもまたリアルです。
 最初は、「敵」というタイトルから、この老人の平和な日常に進入してくる「何か」がいて、それに対して老人が戦いを挑むような内容を連想していたんですが、パソコン通信によって語られる「敵」は<ネタバレ>その正体が語られることなく消えていってしまうし<ネタバレ>、もしかしてこれが?と思った犬丸なる登場人物も<ネタバレ>実際には現在の老人の前に現れることもなく日々は過ぎていき、しかし明らかに老人の連想のタガが外れていっていくそのこと、その狂気を象徴的に表現したのが「敵」というタイトルなのかと思ったりしました。
 しかし、面白い小説でした。生活の描写だけでも面白い。その昔、名女優はレストランのメニューを読み上げるだけで観客を泣かせたそうですが(嘘っぽい話だが)、たとえばキングはシアーズのカタログを並べ挙げていくだけでも読み手を飽きさせない作家です。それと同じように、筒井康隆もまた、物置の中身を説明していくだけであっても、読み手を引っ張っていくことが出来る作家なのです。やはり、稀有なひとだと思うなあ…。

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