「さすらいの女王」中村うさぎ(文春文庫)



 中村うさぎのエッセイ集がこの数ヶ月で続けて文庫化されましたが、これもその一冊。2004年から2005年にかけて、週刊文春に連載されていたもので、数年前のものとはいえリアルタイム感があります。 ブランド品の買い物三昧から、ホストに入れあげ、全身美容整形に至ったあと、デリヘル体験まで行った中村うさぎの行く末は…という感じですが、この本では、その後の子宮筋腫や差し押さえ騒動などが語られています。
 一読して思ったのは、週刊連載のコラムなので、ひとつひとつのエピソードが短い分、よけいに生の彼女の声が聞こえる感じがするということ。いつもの調子で軽く読めるといえばそうなのですが、ブランド品に振り回されていたときのような狂躁的な語り口はだいぶん収まって、むしろ粘着的にひとつひとつの事象を語っている感じがします。
 …あのね、嫌なもの連想した。中島梓っぽい(ごめんなさいごめんなさい)。この本はそこまででもないですが、たとえば、同時期に文庫になった、買い物依存からデリヘル体験までの道のりをつらつらと語った「愚者の道」の語り口は、非常に、中島梓を連想させましたし、犯罪に関わった女性達についてのノンフィクションレポである「女という病」は、その事件に登場する女性たちにシンクロした結果、彼女たちの一人称で事件をフィクション化していくという、その「そうなってしまう」感じが、似ています(ただし、中村うさぎの書いたものはシンクロと同時に優れた読み物として成り立っていると思いますが)。 懸命に周囲と自分の温度差を見極めようとして、とにかく自分のことを掘り下げずにはいられない感じが似てるのかな?でも、中島梓はあれだけ自分のことだけを語りつつも、闘病記やエッセイはともかくとして、評論ではそのことをあえて明言しようとはしなかったわけですが(栗本薫のヤオイを分析してみせたときでさえ、評論家、中島梓として距離を保ったスタイルで書こうとした)、中村うさぎは、どんな場合もどこまでも「自分」のことだと語らずにはいられない。そこが違いかな、と思います。




 文庫版あとがきで、50歳になると書いていて、ちょっと驚きましたが、スニーカー文庫に書いていたひとなわけですから、それはもうそんな歳にもなるかもしれない…。また、今年ハマっていたウリセンの男子とも別れたと読み、安心いたしました。「こんなわたしに欲情してくれる!」と感激して付き合っている旨を雑誌で読んだときから「いや、ウリセンはそれが商売ですから」と思っていました。本来の聡明さや判断力をも凌駕するこのひとの凄まじいまでの自己卑下(それは同時に高慢なまでの理想の高さに通じるのですが)が満たされるときはあるのだろうかと思いつつ、満たされることを本人が(意識的か無意識的かは分からずとも)望んでいないのもまた確かなわけで、そうなるとこのひとのたどりつく先はどこなのかなと一読者として興味を持ってしまいますね。
 というのも、わたしはやはり女子(あえておんなこどもの意味を残して、女性でなく女子といいます)として、自分の先輩である年長の女子の行き先に興味があるのです。ああいうひとが先にあの場所にいてくれたら安心、という気持ちが欲しいのかもしれない。それはもちろん本来は自分が見つけるべきものであるし、誰かほかのひとが見つけたものがわたしにあてはまるものではないのも百の承知。ただ、なんていうかな、同じような欠落感と周囲との距離感を感じながら、これまでに約束されていた妻になり母になる道でない道を先に歩くひとたちが、幸せになってくれたところを見たいのかもしれません。それで自分も安心したい、なんてとんでもない他力本願ではありますが、ただ、広い意味で同じフィールドに立つ先輩を陰ながら見守りたい、そんなささやかな願いなのです。
 もちろん、これまでにもそう思っていた何人かの先輩が、さらに自分から離れた地表へ去っていくのを悲しい気持ちで見送らざるをえなかったことがたくさんあったわけですが(詳細はあえて秘す。内田春菊とか)、中村うさぎはどうなっていくだろう。とりあえず、わたしは、まだ、このひとの人生を見守っていきたいと思っています。

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