「この世界の片隅に(下)」こうの史代(双葉社)



 太平洋戦争時、広島、呉で生活する家族の生活を丹念に描いた作品が完結しました。
 まだ少女というよりこどもに近かった主人公、すずが、呉に嫁ぎ、生活していくうちにゆるやかに成長していく姿と、静かに忍び寄ってくる戦争の影がじょじょに重なりあっていく構成が、まず見事でした。それは興味深くもあり、恐ろしい感もあったのですが、この最終巻に至って、とうとう時代は昭和20年8月にたどりつきます。ここには、扇情的な戦争マンガにありがちな、愛国心に燃える人々も、非合法活動のなか反戦を訴える人も、登場しません。現実は、おおむね、そうドラマティックなものでなく、普通の生活を送る市民たちは、こうやって穏やかに戦火をやり過ごしていくしかなかったのだろうと思わされます。ある意味、なにも起こらないこと。疑問を抱かないこと。そんな人々の様子がいっそうこの作品をリアルなものにしています。
 しかし、人々は戦争の影響を受けなかったのかといえばもちろんそうではありません。ただ、特別なひとだけが悲劇に巻き込まれるのではなく、いつ誰がそこにいてもおかしくはないという、市民生活が戦場になるということの本質を、作者はことさら声高にいうのではなく、こぼれるひとつひとつの台詞や心情、小さなエピソード、コマのなかの見落としてしまいそうな小さな動きを積み重ねていくことで表現しています。そして、もちろん、主人公であるすずも、その運命から完全に逃れることはできなかったのです。あまりにも残酷な、痛みをともなう結果として。
 
 ただ、その運命を受け止めるに至って、すずが思い、つぶやく述懐の一部が、すずという人物が語る言葉というよりは、作者本人の肉声がそのまま語られているように思えました。ひとつ高い場所から見下ろして、この世界そのものとそこでの自分の役割をああいう言葉で語ることは、すずに可能であったのかとわたしは思います(P126。すごくすごく、良いシーンなんだけど…)。そういう意味を自ずと悟ることはあったとしても、それがあんな表現になるだろうかとそれだけはひっかかりましたが、それはこの長い物語のなかでは、小さな違和感に過ぎなかったかもしれません。登場人物の多くは、すずに関わり、語り、そして消えていきます。それらすべてが積み重なった結果が、すずのあの述懐であるというのなら、それはそれでありなのかも。この一家の生活はまだまだ続いていくであろうと思わせる最後のエピソードも、続きが知りたいながら、ここにあるのが人間の生活だからこそ、ドラマティックな落ちは必要ないのだと語られているようで、納得がいきました。静かな祈りにも似た、山の姿と、日々の灯火。
 あと、こんな作品でいうのはあれかもしれませんが、こうの史代は恋愛を描くのが巧いと思います。それも小さなときめきから、最終的な性的な接触に至るまでの肉感的な距離感を描くのが絶妙。こういう可愛い絵柄だと前者はありえても、後者は不自然になったり無かったことにされてしまうのがある種のパターンであるかと思いますが、この作品では、中巻の水原がすずを抱きしめ、頬に唇を寄せるシーンが、その手触りや体温まで伝わってくるような自然なぬくもり感があって、本当に良かった。せつないシーンであることは百も承知で、ぶっちゃけ欲(略)。「夕凪の街桜の国」で有名になったこともあって、これからも戦記ものが一番に評価されるのかなとは思いますが、わたしは「長い道」や「さんさん録」のような、現代を描いた作品で、このささやかなおかしみを含んだ普通の男女のつながりなどを、読んでみたいと思います。

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