「ふしあな」塩川桐子(小池書院)



 みなさんは、すごく好きな作家さんが出来たとき、既刊すべてを揃えてしまっても、それでももっと読みたくて、思わずすでに購入済みの既刊を手にとり、もう一度買おうかなと思ってしまう訳の分からない衝動に駆られたことはありませんか。わたしはあります。そうやって塩川桐子のPFコミックス「ふしあな」を、何度手にとったか分かりません。著者の処女単行本であるそれを読んで、素晴らしいと思ってファンになりました。が、それからいっこうに次作が出ない。本の袖には「待望の短編集・第一弾!」とあるのに、第二弾がいっこうに出ないまま、はや11年が過ぎました。しかし待てた。歳をとると月日の流れるのが早いのがこの時ばかりは幸いしました。この勢いでYAPOOSの新譜も14年待ってます。それはともかく。
 つい先日、本屋で「塩川桐子」の文字を見かけて、歓喜躍動で購入いたしました。待つことひさし!けれどもよくよく見ればそれは11年前に出た単行本の新装版でした…。で、でも、新たに二作が収録されているとあれば許せてしまうのです。なにより、以前に比べてもより版型が大きいこの版のほうが、この作家さんの魅力がより伝わりやすいと思うので、問題なしです。これを機会に、ひとりでも多くのひとがこの作家さんの魅力に気づいていただければと思います。帯にも「他人にすすめたくなる」とありましたが、本当に、推薦したくなる。なんでこんな気持ちになるかというと、やはり、それは「ねえ、こんなマンガ、いままで読んだこと無いでしょ?」というわくわく感からかなと思います。まさにオリジナル。
 というのは、このマンガ、キャラクター、背景ともにすべてが浮世絵の描線で書かれた時代物なのですね。浮世絵といわれてみなさんが普通に思い浮かべるであろう、粋な女性の姿や武士の姿、もちろん、なまめかしい枕絵含めて、あれです、あれ。あのまんまの絵で、マンガを描いているのです。適当なデフォルメなく、人物の表情までも。それはもちろん、こんな表情は浮世絵にはそうあるまいと思う顔や人物も登場しますが、それらもまったく違和感がない。それってすごいことだと思うのです。まずは、すっきりとしたその線の美しさをぜひごらん頂きたい。1コマ1コマ、うっとりと眺めて飽きません。
 しかしなによりも、わたしが訴えたいのは、なおかつその絵のままでも十分に、マンガとしての魅力が際立っているところなのですね。一歩間違えれば不自然になりかねないその線で、人物たちの喜怒哀楽は巧みに表現されて、違和感がない。普通に読み込んでいて、時々「あ、浮世絵の絵だなあ」と気づく感じでしょうか。さらに、そこまで絵のことを語っておいて、なおかつわたしが推したいのは、この作品集のストーリー内容の濃さ、です。この独特な絵の手法がいちばんの売りになりかねないこのマンガですが、まず、物語が良い。せつない。すべて江戸時代が舞台となり、そこでの人間模様が題材となっています。そういうと「時代物はちょっと…」というひともいるかもしれないが、まあ、待て。わたしも江戸はさっぱりです(笑)。しかしながら、関係ない。ここに描かれているのは確かに江戸の人たちだと思いますが、そこで織り成される人々の葛藤や恋、ちょっとしたおかしさなどは、いまの世の中にも有り得そうで共感できるもの、人間の普遍的な部分はおそらく変わらないのだろうと思わせるお話が揃っているのだから。では、ひとつひとつご紹介いたしましょう。
 「歳月
 「一人前の武士になったら迎えに来る」という言葉を信じて、ひたすらに初恋の相手を待ち続けたものの、ついにかれは現れず、望まれて穏やかな人柄の武士に嫁いだ武家の娘。これといって気苦労もないかわり、心が浮き立つこともない平和な日々の中で、なぜかしら、その相手のことを折に触れ思い出すようになった彼女のもとをおとずれた客人は…という話。すれ違いの歳月のなか、彼女が得た結論が身に沁みます。燃えるような恋情でもなく、身を切られる辛さでもなく、ただ包み込まれるやさしさからくる、愛おしさが救ったものは…。いい話です。

 所帯を持って3年目に突然姿を消した女房のおしまを追った大工の作次。ようやく見つけたおしまが語る、失踪のわけとは…。これがもう、身につまされてつまされて。それはどうよと思われるかもしれないけれど、まったく筋違いかもしれないけれど、JUNEですよ、これ。誰かを信じるということ、裏切られるということ。不確定な未来にこそ怯え、自分を包む疑念の影に食い荒らされてしまった女と、それをどうしてやることもできないまま、理解も出来ずに、ただ、惚れていることだけは真実だった男。本当の意味でひとがひとを変えることなど、出来はしないのではないだろうか。最後の最後でたどりつく作次の述懐が場面そのままに雪のように冷たく残ります。名作。
寂滅
 夫がいる身の女性と年下の男のこじれた別れ話。無理難題をふっかけて、ついには金を強請ろうとする男がつぶやく本音。世間に長けた年増女の怯えと、若い男の不器用さが、巧みに描かれ、せつないです。
散る桜
 衆道の道で声をかけられた相手にどう応対してよいかわからなかったは、結果として父をその相手に殺される。仇討ちを誓い、ついに出会った相手との間に生まれた一瞬の心の交わりと、たどりつく運命。これはPFコミックス版には入っていません。未発表作、らしいです。♪こーんーなーさくーひんーをー未発表ーーーーって、なーぜーーー♪とオペラを歌いたくなる(やめれ)、作品です。衆道なので、設定からしてJUNEかもしれませんが、そういうのをのぞいても!これが男女であったとしても、犬と猫であったとしても(くさてるさんそれ話が成り立たない)、JUNEになるのではなかろうか。そう思わせる、孤独で不器用な魂のすれ違いを描いた作品です。これが未発表……。塩川先生の家の押入れにはきっとこんなのがまだ…(泥棒には入りません)。
ふしあな
 美しく驕慢ながらも惚れた男には一途な遊女と、その遊女の為に全身に美しい彫り物を入れた大工の物語。苦しい生活のなかで、唯一の安らぎであるその彫り物を誰からも奪われまいとした遊女の企みが、恐ろしい運命を引き寄せる。タイトルの意味が最後で分かって総毛立つような、とても怖く、しかし悲しい物語です。どの作品もそうですが、この話は際立って絵が美しいです。
杜若
 これは単行本未収録作です。太平の世の中で生きていく武士の一家を描いた、落ち着いた雰囲気の正しい作品です。ちょっとユーモラスな感じがとても可愛い。この作者は、健全な意味での人間性というものを信じているんだろうなということが伺えます。その同じ作者が「錆」のような作品も描いてしまうのがすごいところですが。
 以上、ずらずらと書いてきましたが、少しでも興味を持ってくださったかたには、ぜひ、現物を手にとっていただきたいです。11年ぶりの単行本なれど、巻末の作者あとがきによると、お変わりなくすごされているようでなによりです。が、その中で聞き捨てならぬひとことが。「年に一本ほど作っています」。ちょっと待て。PF版単行本が出てから繰り返しますが11年です。あと11作はどこへ。単行本2冊にはなるはずです。寡作が似合う作家さんではあるかと思いますが、せめて単行本で、もうちょっと頻繁にお出まし願いたいものです。

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