元帥・鳶丸の「宇宙と恐竜」DRAWING THEATER(大阪RUIDO)

 さて、大阪にやって参りました。「元帥・鳶丸の宇宙と恐竜」2DAYSの為です。今回の遠征では、盟友真夜さんと真夜さんの世を忍ぶ仮のシスターKちゃんがご一緒というわけで、ライブだけでなくそれも楽しみでありました。

 とりあえず、心斎橋にて真夜さんたちと合流です。そごう閉店のお知らせに胸を痛めつつ(たこやきんが好きだったのです)、歩いた大阪の町はさすがに暑かった。ホテルにチェックインしたあとは、真夜さんが持ってきてくれた編集長:ビートたけし 副編集長:所ジョージの雑誌「FAMOSO」に大喜びです。なんだろうこの無駄なクオリティ。すでにフォーカスのフォーマット自体、覚えている人が少なくなっているかもしれないのに!わたしの一番お気に入りの記事は花畑牧場の裏で発見された大量の森永キャラメルの空き箱とドイツ美人のセクシーショット前から後ろからです。ああ、やっぱりたけちゃんは良い。

 のんびりと出陣した先は、大阪RUIDE。初めてのハコです。新しいだけあって、綺麗です。最前の柵が歴戦の兵どもをこれから待ち受ける感じですな。あれがどんどんボロボロになっていくのだろう…。全席指定ということもあって、ゆったりと入場できました。席の数は全部で80くらいだったかな?

 さて、宇宙と恐竜。わたしは7年前のツアーは、大阪と広島に参加しています。そのときの感想は、実は書いてないのです。あの頃の帝國といえば、その。元帥が、あの。当時の空気を知らないかたには誤解を招く表現しか出来ないのですが、帝國が変化し始めた微妙な時期に、元帥が始めたソロ活動として、帝國本体の臣民であるわたしは、正直、複雑な気持ちで迎えるしかないものでありました。けれど、実際に見たら、とても面白く、同時に刺激的で、元帥自身と帝國への示唆に満ちたものであったのですね。最後らへんはわたしの思い込みも入っていますが。

 なので、今回の再演が決定したときには、見るしかないことも分かっていました。しかし、それはわたしにとって、1006年の3月、オレたち14帝國の旗揚げであった「風間少佐の真っ赤なウソ」にてゲスト出演をしたお姿を拝見して以来、かたくなに見るのを避けてきた、楠本柊生元帥との一方的な再会でもあるわけです。

 ぶっちゃけ、悩みました。出来るならこのまま、見ないでいたかった。わたしのなかにある元帥への感情は、こんなところでは恥ずかしくて書けないほど単純でありながらも、どろどろとしているものであります。とりわけ、かれが帝國を離れることを決めてからは。お友達にはずっと、それ以後のかれを見ることを薦められていました。「思い出を美しくしているからこそ卒業できない」とまで云われました。けれど、現実よりも、本当よりも、夢や思い出を大事に思う人間であればこそ、わたしはかれに執着したのではないでしょうか?そう、わたしはずっと怖かった。かれが変質しているかもしれないことが嫌だった。正直に云いますが、茶髪というだけで駄目だったのです。しかし、もはや逃げられない。ただもう深く考えずに、ありのままに受け止める。それだけを心に決めて椅子に腰かけたわたしの前に、いよいよ、「宇宙と恐竜」の幕が開きました。

 スクリーンが用意された舞台に、ビートルズの「I AM THE WALRUS」が鳴り響きました。好きな曲です。これからまさにミステリーツアーが始まるのですね。わたしは未だに覚悟など決まらないまま、歌詞に耳を傾けました。I am he As you are he As you are me And we are all together。それに続く意味のあるような無いような不思議な歌詞。とりわけ、「I’mcrying」が響きました。わたしは心で叫んでいたのだと思いました。涙こそ流さずとも、悲しいわけでなくても、心でずっと泣き叫び続けていたような気がします。

 そして、その曲に合わせるように、シオタニ氏がすらすらと書く文字がスクリーンに映り、観客に呼びかけていきます。シオタニ氏に関してはなにもかも初見でしたが、これが、なんだか快感だったなあ。アルファベットから現われてくるひとの顔、出来上がっていくかたちを見ていくのが生理的に快かった。このドローイングで語られる物語がとてもいい感じです。そしてさらに、現われた姿を見ました。元帥を、見ました。

 茶髪の元帥をまじまじと見るのは初めてでした。当たり前ですが、それ以外はあんまり変わってないなあと感じました。もうちょっとドーラン塗ってもいいんじゃないか髭が濃い感じだよと失礼ながら思ったり。泣き出すかなと思ったけど、不思議と落ち着いてみていられました。それはまず第一に、元帥が茶髪だったからですね。なので、あまり再会!とか入れ込む気分にならなかったし、なにより、語られていく物語の展開のほうに気をとられて、すぐに感傷的な気分からは脱することができました。良かった。あのタクシーに乗り込むくだりとか、7年前にも見て総毛だったのを思い出しました。ああカッコいい。こういう元帥が好き。

 天野氏はおぼれながら大変にかわいらしく登場されましたが、さすが魔の大阪。演技どうこう以前にあの噛みっぷりはすごかったですね!「ぅあぁあっ!」って叫ばれたときには見てるこっちもうあぁあです。おかげで変な緊張もほぐれたので良しとしますが、みんながそうかどうかは確信がもてませぬ。ところどころにグルグル映畫館の歌詞をちりばめた台詞が面白く、うしろのスクリーンを使ったシオタニ氏の「神」の文字による自在な突っ込みが楽しかったなあ。「なんでも好きなことが出来る」と教えられたときの天野氏の表情は最高。あと二次元オタクとしての反論も、いやになるほど演技を超えていて最高。「元帥は草食系男子には見えません」も、云われた元帥の苦笑含めてマーベラス。いやあ、本当に見えないよね。ちょっとは野菜食べたほうがいいとかいいたくなるほどだよ。「ココを連れて逃げて!」のポーズ、「…YOSHIKI」は最高。これを的確に表現できる文章力を持ち合わせていない自分が悔しいほど。そういう拾っていったら限りない小ネタがどれもいいですね。台詞をちゃんと云えていたら、もっと良かったかもしれないけど(でも元帥も口が回ってないとこありました。たぶん、練習のしすぎです)。

 なので、ココが燃え尽き、今度はキャプテン9×9さまが現われたときも、その姿にはそんなに違和感はなかったかな。その頃には、ただもうストーリーとシオタニ氏の文字とイラストを楽しむほうに神経を集中させていたこともあって、元帥の姿ひとつひとつに気持ちを揺れ動かすことはなかった。なかったのですよ。わたしはこのまま、「宇宙と恐竜」を楽しんでいられるなと思っていたのです。なのに、宇宙船を直すことになり、曲に合わせてシオタニ氏の自在なイラストが作り上げていくのを気持ちよく眺めていたとき、そのとき。
 
 そのとき。シオタニ氏が、イラストの元帥の頭をさっと青く塗った瞬間、身体から血の気が引いた。だって、これまでずっと安心していたのに。かれの髪は茶色で、唇も赤くなかった、から。わたしは目の前にいるのが元帥だと、わたしの崇拝する皇認独裁官にして帝國元帥、楠本柊生であるとあまり実感することなく、普通に楽しめていたのに。もしここに、あの蒼い髪、赤い唇の柊生元帥が現れたらと思うと、自分がどうなってしまうか分からなかった。確かにわたしは元帥に、ああであって欲しかったけれども、そうでない茶髪の元帥を普通に楽しめていた。なにが起こるのか、分からないことが、とても怖かった。怖かった。

 けれども、音楽が鳴り響いたときに、登場したかれは。…元帥もあとで悔しがっていたけれど、そのかれの髪は、全然、蒼くなかったのだ。蒼にしようとしたんだろうな、という感じで、色濃く濡れていたのだけど。それが分かった瞬間、全身に安堵感が広がり、それと同時に。

 憑き物が、落ちた。

 わたしには分からない。もしこれが、あの見慣れた髪の毛が束になって固まってどこまでも不自然に蒼い、あの髪であったなら。唇がもっとくっきりと赤く、肌が白くあったなら。そしてなにより、登場音楽が、キリエであったのなら。わたしはどうなったか分からない。わたしは再びあの迷宮に迷い込み、飢えに近い渇望と苛立ちのなか、求める権利がないことを知り尽くした欲求に、苛まれたのかも、しれないのだけど。けれども、そうでなかったから。そうでなかったかわりに、そこにあったのは、あのひと。間違いなく、楠本柊生というひと。

 …わたしがずっと、見るであろうと思ってきたひとなんて、もう、どこにもいないじゃないか。

 そう認識したとたん、世界は開けた。頑なであった視界に、目の前の楠本柊生という人が、初めて明確に見えてきた感じがあった。わたしは馬鹿だ。これまでどれだけ懸命にこの人を見ることを拒否してきたんだろう。わたしは馬鹿だ。そうやって、見ずに済ませることで、ぐらぐらと暗い物をたぎらせて、ただ恐ろしくて、悲しくて。わたしは馬鹿だ。世界で一番の愚か者だ。だって、ほら。まるで初めて見るように、百回以上見てきた顔をわたしは見る。10年以上、眺めた姿を見る。時は流れた。わたしにも、かれにも。そしてすべての理として、時によって摩耗することがない部分は、そのままに、かれもわたしも、残っていた。

 そう、かれは変わっていないように思えた。けれども、昔は幾分透けて見えた、ある種の癖のような頑なな部分が柔らかくなっている気がした。そしてこの「宇宙と恐竜」というライブ、かれの語りを聞くにつれ、ゆっくりと腑に落ちていくものがあった。解放感。すさまじい、解放感。わたしは一介の臣民として、かれが帝國を離れたあの時の痛みを忘れることは出来ないのだけど、だれもがこの世に生まれいづるときに母親の苦痛を引き換えにしなければいけないのと、同じことだったのかもしれない。そう思った。

 そしてわたしは同時に、いまもわたしが惹かれてやまない元帥がいる場所を知っている。臣民仲間がどんなに減っても、わたしは「オレたち14帝國」を信頼して、にこにこと通い続けている。あそこにその元帥はいる。姿はなくとも、その魂がある。だからわたしは、この楠本柊生を見て、大丈夫と思った。自分が芝居に興味さえあれば、一人芝居を見たかも知れないとさえ思った。あのMOVIEの意味が理解できた気がした。あれが可能になったのは、いま、このひとが目の前にいるからなんだ。

 解放された。わたし、解放された。そこに、わたしが自分の精神世界を支配し続けてきたと思っていた存在が、いなかったということによって。わたしがずっとこだわってきたのは、わたしのなかの、己が作り上げた元帥。それはこうもたやすく、リアルの存在によって粉砕されるものでした。見てよかった。本当に、来てよかった。ハレルヤ。
 
 そんな感じで、頭のなかにがんがんと響く「解放された」という思いのまま、一気にラストまで楽しみました。なにより、わたしにとっての「宇宙と恐竜」は、天野鳶丸の物語である以上に、楠本柊生の物語です。七年前からずっとそうです。かれは忘れられてしまう薔薇であり、ジョバンニを置いていくと同時に置いていかれるカムパネルラでした。わたしは七年前、鳶丸が見送る元帥の背中が一人だったのがとても気になりました。鳶丸を手放すかれが、またひとりになるのがたまらないと思いました。だから、最後、鳶丸の店を出た元帥を大将が待っているという映像が付け加えられたと聞いた、東京での最終公演が見られなかったことを七年間ずっと後悔し続けていました。あの頃のわたしがそれを見ることが出来たなら、どれだけ安心したことでしょう。わたしは、かれに還る場所があってほしいと願わずにいられませんでした。いま、目の前にいるかれには、きっとそれがあります。わたしは、それを知って、心から、安心しました。

 今回の「宇宙と恐竜」、基本的には七年前のリミックスという内容ですね。「宇宙と恐竜」というタイトルとこの二人でまったく違う話やっても面白かったかと思いますが、シオタニ氏という要素が加わって、以前のバージョンに負けない面白さになったと思います。ていうか、シオタニ氏は、ギャラ三倍もらっていいですよ。こんなに楽しませてもらえるとは。

 あ、あと、元帥は、たいへん歌が巧くなっていました。これ、誰ですか、「あれで?」とか云ってるひとは。失礼ですよ(わたしが)。YouTubeあたりに「白い花」をUPすればいいのかしら…(しません)。立花大将とのデュエット「これが私の生きる道」でもいいかな(しませんってば)。

 ただ、いかんせん3時間は長かった。こればっかりは芝居属性を持ち合わせてない人間なので、自分がいけないのですが、とくに、後半の宮沢賢治ネタのくだりがちょっと長かったかな?そこらへんを踏まえても、なんかところどころで、昔の帝國を思い出しました。昔の帝國で長くなっちゃうときはもっとぐだぐだ感がありましたけど(笑)。

 終了後、時計を見て驚いた。3時間。わぁ、久しぶり、こんな感覚。それこそ昔の帝國以来です。物販では、個展以来久々に大阪の妹、いぬ嬢と会いました。ぐりぐり(撫でてみた)。打ち上げは、わたしと真夜の定番の居酒屋で。話題はあれこれ及びつつも、いぬの呑み方を見ててすごく嫌な気持ちになりました。ペース配分といい舌の回らなさといい、10年前のわたしの飲み方、そっくり。警告しておくけど、そのうちに人生最大の失敗を酒でやらかします。いまのうちに矯正しておきなさいね。しかしそういいながらもホテルに戻って真夜と酒を飲み続け、記憶が無くなったのもわたしです。10年たっても同じこと(あ、でも、外でやらなくなっただけましかも!)。

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