「五月の独房にて」岩井志麻子(小学館)



 春の盛り。私は一人、懲役16年の刑に服している。老いていく私の目に、私が殺してバラバラにした女が、殺した時の若さと美しさのまま現れ、耳元で囁いていく。
「頭がのうても、しゃべれるんよ。彩子さん」
 女子刑務所で、刑に服しながらも、心はいつも自分が殺した女と自分を利用した男のこと、何よりも、自分を追い詰めた母親のことを考えている。変化の無い生活のなかでは、なおさら影のように現れる幽霊と、己の人生の記憶だけがはっきりと浮かび上がっていく。辿られる記憶のなか、やがて、訪れる事件の場面と、釈放のときは―――。
 怖いよ志麻子ちゃん。
 思わず開口一番にそう云ってしまいますが、これは怖かった。いわゆる実話系怪談をのぞいては、そうそう読書で背筋が寒くなるような思いをすることはない、すれっからしの本読みでございますが、これはもう。途中で「やばいやばいやばい」と口走りました。怖い。なにが怖いって、静かな禍々しさに満ちているこの世のものでない人々の存在でも、グロテスクな死体損壊の場面でもありません。ただ、どこから見ても普通で通るような生活のなか、ふつふつと妄執を育てていく主人公のありようが恐ろしかった。それに尽きます。
 
 最初は、刑務所のなか、どこか達観した様子で、この世のものでない人々を幻視しながら過ごしているように思えた主人公が、やがて、記憶を辿り、じわじわと事件の核心へと達していく過程が、長編ならではの手間のかけかたと構成だと思いました。実際の事件をモデルにしているとはいえ、誰でもこれが書けるわけではない。岩井志麻子は作家です。当たり前のことですが、思い知りました。わたしが怖いと思うのは、モデルの有無に関わらず、行間からにじみ出るそのリアリティからだと思うのです。人を殺す、ということ。そこまでの心情に至った人間の、狂っていないはずなのに、どうしようもない空虚な、怒りに満ちた真っ赤な空間が覗けるようなその言葉が、ひたすら恐ろしかった。精神科医の春日武彦が、なぜ人を殺してはいけないかという問いについて、人を殺してしまった人間は、そのあと、まるで画素が荒くなったような印象を受ける、人間としてのきめ細かさを失ってしまうから、という意味のことを云っていたのですが、その言葉を思い出しました。
 この主人公には、欠けている。なにかが徹底的に欠けている。それはまるで、不意に、白目がない瞳を開かれたような不気味さに満ちていて、禍々しい。それに寄り添う、常に発熱しているような欲望が行き着いた先が、殺人と服役に終わらなかったことが、さらに絶望的に思えます。
 ただもう、これ、ちゃんと読み通せるかどうかは、本当に向き不向きだと思います。読む人によって、0点か満点かに分かれるような気がします。エログロな場面がどうこうではなく、こういう延々と語られる女の妄執が生理的に受け付けないひとも多いのではないかしら。あと、岡山弁に馴染みがないと少し辛いかなと思います。また、誰もが納得いくような、綺麗な展開ではありません。どこまでが真実で、本当なのか。分からないまま放り出されている小道具もあると思います。けれど、その細部において投げやりな語りこそが、こういう事件にたどりついてしまった女の本質をあらわしているのかと思います。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする