「僕たちは池を食べた」春日武彦(河出書房新社)



 精神科医である著者による初の小説集です。過去には、歌人の穂村弘やマンガ家の吉野朔実との共著本もあります。そこで名前を見かけたひともいるのでは。これまでは、豊富な臨床経験に基づいた視点から、個人的な興味の対象や精神医学について、いっけん理性的な口調で語りつつも、どこかで時々、危うくなるような、そんな不思議なバランスがある印象でした。それにより、著作も通り一遍のものでないような気がして楽しめる、ずっと愛読しています。
 精神科医の書くものといえば、臨床経験に乏しい医師の恥ずかしいほど時流におもねったものか、ただただセンセーショナルなもの、あるいはもっと地道で啓蒙的な内容なために地味であるもの、など、色々とイメージがあると思いますが、なかには優れた文学的才能の持ち主もおられます。有名なのは北杜夫であるかと思いますが、個人的にはなだいなだがおすすめ。その小説の主要作のほとんどが絶版であるのが嘆かわしい。いまでも手に取りやすく、同時に現代的なテーマともいえる性同一性障害をテーマにした「クワルテット」だけでも是非…(これは違う作者の違う本の感想文です)。


 それはともかくとして。これまでに、春日武彦の小説は「本当は不気味で恐ろしい自分探し」という本で、エッセイと短編小説が同時に収録されたものを読んでいましたが、それは正直云って、あまり読みやすいものでありませんでした。


 そのため、この小説集も実際に手に取るまで多少の躊躇いがあったのですが、いやあ、とても面白かったです。
 どの作品も、精神科の患者たちの思い出に、著者個人の独特なキッチュなものへのこだわりが交じり合う形式を取っています。作者そのままを思わせる主人公の医師ではありますが、私小説、と判断するのは単純すぎるでしょう。以前のエッセイで語られたことがある著者個人のエピソードが、ここでは患者のエピソードとして再構成されたりもしていましたので、実際の経験を基にしたフィクションとして愉しむのが正しいと思います。なにより、ただの事例報告ではありえない豊かなイメージと飛躍の発想が結び合うこの文体は、文学になり得ていると思うのです。どこまでがリアルでどこからがフェイクかが揺らぐ感じ。それは実話であるかどうかというレベルのことでなく、登場する患者たちひとりひとりの人生の機微に関しても、云えることだと感じました。なにが本当で、なにが嘘なのか。症状とは、何なのか。さまざまな病理が、作品の中心に挙げられています。そのどれもが現役の医師ならではの、リアリティ溢れる描写だと思いました。ことさらドラマティックなことがおきるわけでなく、ただ、ゆっくりとずれていく精神のかたち。そこにいる、どこにでもいる、わたしたちと変わりは無いひとたち。
 ここには8つの短編が収められています。元・缶詰製造工場に暮らして秘密の生活を送ることを夢見る医師のもとに、缶詰のレッテル画を描くことを生業としていた男性が訪れる「静物画家」、田舎の精神病院でのアルバイトに息苦しい気持ちを感じている描写が、北杜夫の「どくとる・マンボウシリーズ」を思わせ(しかしながら北杜夫の作品は確か昭和30年代くらいの話だったはずなのですが、地方精神病院を巡る状況は根本のところではそう変化が無いということでしょうか…)、挟み込まれた独特の視野と才能を持つ連れ合いの描写が興味深い「人体の神秘・大脳篇」、ごく平凡な青年がどんどんなだれ込んでいく統合失調症の描写が凄みがある「時計台最中」などが、とくにわたしの心に残りました。
 いろいろと読む人によって、好みは分かれるでしょうが、個人的にいちばん良かったのは、表題作でもある「僕たちは池を食べた」です。
 ある日、精神科外来を訪れた、失声症の女性。突然、声を失って話すことが出来なくなった彼女の印象と、多少エキセントリックなところがある外科の看護士である妻との会話などで構成されていますが、ことさらドラマチックなことは訪れないまま、静かな、しかし芳醇な色のイメージが広がるような作品です。奇妙なタイトルが意味することが分かったとたん、自分の目の前にもその色が広がったような気がしました。それは病のなかでも失われない、人間性のようなものかもしれません。美しく、同時に愛らしい作品だと思いました。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする