「乳と卵」川上未映子(文藝春秋)



 云わずと知れた芥川賞受賞作であります。わたしもそれで著者の名前を知りましたが、初めて読んだエッセイ集「そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります」(講談社文庫)が大変に面白かったため、この作品も読んでみる気になりました。なんていうかな、わたしのなかの不思議ちゃんセンサーにビンビン反応するものがありました。似たようなものは佃煮にするほどいるかもしれないけれど、本物はやはり味わいが違う。


 大阪に住む姉と姪が東京に遊びに来るのを迎えるわたし。水商売をしながら娘をひとりで育てている姉は、豊胸手術を受けに東京に来るのだ。一緒に来た姪は思春期を迎えて筆談でしか話をしようとしない。彼女は初潮を恐れている。母の体を心配している。わたしは、姉の豊胸への執念をいまひとつ身近に感じることはできない。ある日、出かけた姉の帰りを待つことになったわたしと姪。しかしいつまでも姉は帰ることがなく…というお話。
 生理だの妊娠だの豊胸だの、女の体にまつわるトピックスがふんだんに盛り込まれているため、本来なら生臭くって読めたものじゃないと、わたしなどは感じるところですが、これがすらすらと流れるような大阪弁のリズムに乗って語られると、まったくといっていいほど、鼻につかない。それが面白かった。語られていることの生々しさと文章力から沸き立ってくるイメージは相当な力を持っていると思うのですが、こけおどしでない。こういう女性ならではのテーマはときに、女性読者への無理矢理の共感を求めるための道具として使われることがあるかと思いますが、ここにはそんな甘さはない。ただ、あるだけ。そしてそれがたまたま才能のあるひとに語られるものとして選ばれたときに、ここまでの勢いをもって流れる文章として存在できるのだなあと思いました。そしてそれが不自然でない。主人公である「わたし」と小学生である「緑子」の手記を交互に挟みながら、物語は進んでいくわけですが、「緑子」のパートの巧さには舌を巻きました。音読したって馴染める。ラジオドラマでもいける。
 確か、批評家の豊崎由美も書いていたかと思いますが、笙野頼子にも似ている。ストーリーとか以前に、ただもう流れ込む文章によってイメージをある確固たるかたちへと作り上げていく手法が。そして、それは読んでいくだけで、生理的に気持ちいいのですね。途中でひっかかることなくするすると読むことが出来る平易な文章でありながら、確かなイメージを作り上げていく。著者は詩人でもあるので、言葉の使い方の巧みさはそこから来るのかなと思いました。しかし実は著者の詩集も既読なのですが、これは読み通せませんでした。白状しておく。だから、難解さと平易さを使い分けることが出来るひとなのだと思いました。
 しかし、どうにもテーマがテーマなだけに、嫌な人は嫌かも。あと、大阪弁が駄目なひともアウト。言葉のグルーヴ感に乗って読書する快感、というのに馴染みがないひとには、もしかして、ただ、だらだらと書かれた文章のようにも受け取られるかもしれない。ある種、読み手を選別する小説であることは否定できないのですが、文章と物語が共に到達するものを踏まえて、わたしはすごく純文学だと思うし、面白かったです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする