「1Q84 BOOK1・BOOK2」村上春樹(新潮社)



 すでに二百万部を突破したベストセラーになった村上春樹の最新作です。村上春樹のベストセラーといえば「ノルウェイの森」が有名ですが、あれが純粋な恋愛小説であったのに比べて、この作品はそういう評判が前に出てくることはありません。なんせ、発売前には緘口令がしかれていたくらいですから。その結果、これだけのベストセラーになると、かえってこれまでのハルキストや、読書好きの皆さんは、うがった気持ちになって、手に取るのが遅れたりしているかもしれません。
 かくいうわたくしも、まったく事前情報がないまま、長編でもあるし…と読むのが遅れておりまして、ようやく読んだところです。以下、ネタバレ無しの感想、というか「1Q84」に関して思ったことなどつれづれに。
 ちょっと話は、ずれますが、村上春樹の「1Q84」前の長編に「海辺のカフカ」があります。わたしは、この作品が大好きで、構成、文章、設定など、様々な意味で作者の力量に敬服する思いになったものですが、その「海辺のカフカ」に対して、ある批評家がこんなことを述べました。「こんな純文学がこれだけ売れるなんて、多くの人は村上春樹というブランドを有難がって買っているだけ。そんな一般大衆に、この中身が理解できるとも思えない」。まあ、そういった意味のこと。それまでその批評家を信頼して、著書に目を通していたわたしとしては、とても失望したものです。「海辺のカフカ」自体は、確かに純文学の範疇に入るものであり、一般的なエンタテイメントとはいえないものであると思います。しかし、なぜ、それを一般の人(つまりは文学的訓練を受けていないひと、ですね)が面白く感じるわけが無い、と言い切れるのでしょう。さらには、正しく理解できるわけがないという、その正しい理解というものの根拠はいったい何でしょう。純文学的コードを用いた解析のみが、小説を評価する基準であるとは、わたしには到底、思えません。ひとは「なんだか分からないけど、面白かった!」と平気でいうことができるだけの勇気を、あんがい、持ち合わせているものなのです。


 そしておそらくは、この「1Q84」に対しても、同じような言葉が聴かれるのではないかと思うのです。これだけの厚さをもった本が、200万部以上売れた、ということは、村上春樹の小説が、人々の心にひっかかるフックをそれだけ持っているという証拠だし、これだけ出版不況といわれたところで、ひとは己の求める本を買うのだ、という証明にもなると思うのですが。
 村上春樹は、色んな意味で特殊すぎる作家だと思います。が、かれの書くものは、これだけの人々を惹きつける。それが「ノルウェイの森」であれば、クリスマスシーズンに合わせたような赤と緑の配色の装丁が受けた、とか、純粋な恋愛小説ということで、ラブストーリー好きな人々の好みにあった、と説明をつけることもできるでしょうが(しかし「ノルウェイの森」は、正直いって、重苦しく、けして読みやすい話ではありません。村上春樹がつぶやく、ある種の諦念の結晶のような作品です)、この「1Q84」に対しては、それが難しい。ある種の恋愛小説でもありますが、それ以上に差し出されたテーマの多くが、軽々しく扱うことをためらわせるような重さを内包しています。
 けれど、この「1Q84」自体は、エンタテイメントとして、十分に読者を引っ張っていくだけのリーダビリティを持っています。いや本当に。単純に、登場人物の謎と運命を追いかけていくだけでもスリルを楽しめますし、恋愛小説として読みたい人には、その自由もちゃんとある。村上春樹独特のファンタジックな仕掛けを愉しみにしているひとにもOKだし、ハルキストには、おそらくいつもの味と感じいる部分もあるでしょう。そうやって普通に愉しむだけでもいいし、解釈の幅は永遠に残されている、そういう作品です。
 そしてこの作品で、わたしがなによりも惹かれてならないのは、村上春樹が、作品を通じてその存在を示し続けるある種の禍々しさを宿した闇のような存在です。あの「いるかホテル」の真っ暗な部屋で羊男をおびえさせたものと、同じ、恐ろしさがここにも息づいています。村上春樹はそれを厭いつつも、その存在への警鐘を鳴らすことは止めない。この世界でなによりも恐ろしいのは、一種の思考停止であり、全体主義であるとわたしは感じます。個と全体が争えば、必ず、全体が勝利します。しかしその全体を構成するのもまた個であることを思えば、そこに何かの可能性は残るかもしれません。そんなことを思いました。
 2009年の日本のベストセラーとして、こういう作品が存在することを、わたしは嬉しく思います。こういう本が売れるのって、読書好きとして、単純に嬉しい。そしてどうやら続刊も発行されるようですが、現在出版されている2冊だけでも、読むことに不自由はしないと思います。おすすめです。

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