「夜、海へ還るバス」森下裕美(双葉社)



 結婚を直前に控えた夏子は、自分が同性愛者ではないかという不安を抱えていた。なぜなら、自分はいつも男性でなく、女性と抱き合う夢しかみないから。とうとう、婚約者にそのことを打ち明け、自分の本当の性癖を確かめたいと思う。そして、その頃に偶然、同じマンションに住む専業主婦の美波と知り合い…
 「少年アシベ」や「ここだけのふたり!」の四コマで知られる作家さんですが、一方、「大阪ハムレット」など四コマでないストーリーマンガも描かれています。この作品も、後者にあたるもの。「大阪?」と同じく、大阪を舞台に、一人の女性が、結婚前に感じた不安と出会いを軸に、母と娘という関係の普遍的な意味にも踏み込んだ作品となっています。
 非常に微妙なテーマなだけに、「こんなこと有り得るのかな」と思うひとも多いかも。また、実際の同性愛者のひとにとっては不愉快な箇所も、もしかしたらあるかも。ところどころ、そういったアンバランスさもある作品かもしれません。
 しかし、時に、ご都合主義的になりがちな展開や台詞を、細かいディティールのリアリティがしっかりと支えて、結果としてとてもリアルな話になっていると思います。舞台が大阪というだけあって、登場人物のファッションや髪型、言葉、町の風景が、とても特徴をよくとらえている。本当にいそうなひとたち、いてもおかしくないひとたちが、それぞれに抱えるものを持って生きている。そのリアリティが、読んでいて伝わってきます。
 印象に残った場面や台詞は多いのですが、個人的には、身体に異常が見つかり、不安になった夏子(主人公)に、優しく、婚約者が声をかけて寝かせる場面が、響きました。
今日さぁ/色々あったから/考えてしもてんやろ?/まず休もう/今はなんも/考えんようにして/ゆっくり眠り
 文句のつけようのない、そんな優しい言葉に対して
アタシは…/アタシでいたいから考えるんだ
 と、夏子は思います。辛い状況に陥ったひとに、約束のようにかけられるそんな言葉、「なにも考えないように」。けれど、考えずにはいられないその理由。なにも考えずに、こだわらずに、生きていければ、周りともなんの軋轢もなく、問題もないかもしれない。けれど、ある種の人間には、どうしてもそれが出来ない。この場面で、夏子という女性がくっきりと現われた感がありました。考えたい。わたしも考えて生きていたい。
 母と娘、過去のトラウマ、同性愛、という深刻なテーマを扱ってはいますが、陰惨だったり重苦しいわけでなく、目をそむけることなく読めてしまうのは、この独特な絵柄と、それでも生きてるって当たり前のことやん?というさりげない視点から来るのかなあと思います。そして、実際の人生がそうであるように、この物語でも、なにもかもすっきりとした大団円は訪れません。別れが、あるだけです。そして、ひとつの経験を通して、自分が自分であるという気持ちを得ることができた主人公の夢が、そこに残ります。読むひとの数だけ、解釈の幅がある自由な作品だと思いました。

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