「堕ちてゆく」岩井志麻子(徳間書店)



 実際に起こった事件を素材にしたフィクションが収められています。要するに週刊新潮の「黒い事件簿」です…というのは乱暴にすぎるでしょうか。わたしは個々の事件にそれほど詳しいわけではないのですが、それでもなんとなく「ああ、あの事件か」と思い当たりました。なので、モデルになっている事件はおそらく読者にもすぐ浮かぶ、それなりに当時はマスコミを賑わせた事件だと思うのですが、それはあくまで素材に過ぎず、あとは作者の奔放な想像力が肉づけをしたひとつの物語になっていると思われます。それはまるで無味乾燥な新聞記事が、読むものの胸に不穏な、なにかを呼び起こす物語に変化を遂げたよう。おそらく、細部は現実とは異なる部分が多いと思うので、そういう部分のリアリティは求めないほうがいいかと思います。あくまでお話として、読んで欲しい。ただ、現実の事件とは異なるフィクションであったとしても、それを読んだひとが勘違いしてしまうかもしれないくらいのリアリティはあるので、そこを非難するひともいるかもしれない。なんせ、出発点は現実の事件なので…。
 それにしても、これまでの岩井志麻子の作品では、現代を舞台にしたものは、その他の時代物と比較してどうしても書き方が雑に感じられたり、展開がありきたりに思えたものですが、これはちょっと違いました。「愛欲に溺れた女たちの事件簿」とあまりにも手垢のついた常套句でこの本を片付けるのはたやすいのですが、しかし、それで終わらないものがある。そういう俗な話であるからかもしれないのだけど、引き込まれる。それは、文章の巧さや構成という以上に、人物像の組み立ての確かさから来るのだと思います。嫌なやつ、悪人、浅はかな人間はいくらでも出てくるけれども、かれらがそうなったその筋道までも透けてみえるようにわたしは感じました。
 あと、汚れた人間を書かせたら巧い志麻子ちゃんではありますが、そうでない純粋な穢れない視点を持つキャラクターもちゃんと書けるのです。しかも、その清廉さが型通りのものでない。人間は、決して一言ではくくれずに、一身のなかに善悪両方の部分を併せ持っているという事実を感じさせてくれます。 一番怖いのは人の心、というのはホラー小説では使い古された概念かもしれません。岩井志麻子の作品は、一見そういう話だと思わせつつも、この世のものでないかつてひとであったものの禍々しい眼差しをも感じさせるようなうすら寒さに満ちているのです。確かにひとのこころは恐ろしい。けれども、そのひとのこころがどうやっても届かない彼岸の果てに漂う魂のかけらは、さらに恐ろしいのかもしれません。

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