「くらやみの速さはどれくらい」エリザベス・ムーン(早川書房)



 近未来、自閉症は幼いころに治療を受けることによって治癒される障害となっていた。ルウは、その治療法が発見される前に大人になった為、成人の自閉症者としての最後の世代に属する男性である。自閉症者の特殊な能力を評価して雇用している会社に勤務しながら、ときにその感覚ゆえの苦しみや戸惑いを感じながらも、おおむね平穏な日々を過ごしている。しかし、成人の自閉症を対象にした新たな治療法が発見されたというニュースが発表された頃を境に、ルウの生活は変化を始めていく…。
 「21世紀版アルジャーノンに花束を」と評価され、ネビュラ賞(アメリカの優れたSFに贈られる賞)を受賞した作品です。そして、ネビュラ賞、というところを読んで、あ、これSFか、と気がついたうっかりさんがここにひとり。いやまあSFには違いないんだけど、でもこれSFかあ。そう思った理由は後述。
 
 まず、全編にわたって描かれる自閉症者特有の世界、かれらの目に映るもの、感じるものについての描写が、たいへん興味深い作品です。最近では、自閉症者本人による書籍も多く出版されるようになり、その独特の感じ方、感覚の鋭敏さについては、あるていど知られるところもあるのかなと思うのですが、この小説では、自閉症者であるルウの一人称というスタイルをとっているため、その感覚の美しさと同時にそれゆえの生活上の困難さも読者が感じられるようになっています。そのきめ細かい描写さは実に分かりやすい。フィクションという形式だからこその分かりやすさと、読者に親切な構造となっているのだと思います。自閉症という障害に何の興味も持っていないひとでも、読み始めればその感覚の興味深さに好奇心を刺激されるのではないでしょうか。できれば、その後は、ドナ・ウィリアムスの「自閉症だったわたしへ」などに代表される、本人たちによる書籍を読んでもらいたいかな。或いは、オリヴァー・サックスの「火星の人類学者」のような優れたノンフィクションもおすすめです。
 非常に読みやすいとわたしは述べましたが、ストーリー自体も、映画化向きのまっすぐさなので、とてもすらすらと読めます。意地悪な人間は意地悪で、親切な人間は親切。障害を理解せずに、絵に描いたような差別意識をぶつけてくるのは嫌な奴。深みがないといってしまえばそれまでですが、深みはルウの描写で得ればいいのかもしれない…。しかし、あまりにも自閉症者の感覚を美しく描き、そうでない人々が平坦に描かれるのがちょっと気になった。自閉症者に優れている部分があると強調することも大事だけど、「だから」自閉症者に対して偏見の目を向けてはならないとする論理が見え隠れしているようで。本来は、優れた能力があろうとなかろうと、ある特定の障害を持った人間に、その障害を理由とした偏見の目は向けられるべきでないとわたしは思うから。当たり前の話ですが、ノーマルと呼ばれる人々にも能力の個人差はある。しかしそれによって人間の基本的な権利において、不利益な扱いを受けることは許されない。それと同じでいいじゃないかと思うのです。もちろん、理解のないひとに誤解されることが多かった自閉症者のなかにもこれだけ豊かな内面世界があり、一般のひとにも理解されうる才能をもったひともいると知らしめることにも大きな意味があるとは思うのですが。うーん、こういうことって難しいですね…。
 しかしあまりにも登場人物の感覚が近未来というよりは現代アメリカの感覚のままなので、時々、設定が近未来であることを忘れます。タイヤ交換とか空港の描写とか、あまりにも、近未来ぽくなく、だからわたしはSFと思わなかったわけです。それもまた読みやすさに寄与していると云われるかもしれませんが、わたしは、これは未来というよりIFの世界だと思う。「もし」自閉症が治療により治癒できる障害であったなら、という世界。そのなかでの設定だといわれたら、それまでかもしれません。
 それにしてもラスト。(ネタばれ部分は文字を隠します)。成人の自閉症を治癒する治療を受けることを決意したルウが宇宙飛行士になるというこのラストに、わたしは驚いた。ていうか、ないわーと思った。もちろんそれは、元自閉症者は宇宙飛行士になれない、という意味ではなく、そもそも障害やハンデを無いことにする、それも感覚や自意識に関わる問題での障害を「治癒」して「みなと同じものを楽しみ、同じことを良しとするようになる」治療というものをどうしても無条件に肯定的に捉えることができなかったせいかもしれません。いや、わたし本人が自閉症者であったなら、と考えるのは無意味かもしれませんが、自分のこどもがもしそうであったなら、余計な苦労(それはちょっとした変わり者、ではすまないレベルのハンデです)はさせたくないと思い、治療を選択するでしょう。自閉症者であるからこそ得られる感覚もあれば、だからこそ得られないものはそれはたくさんあるはずです。だから治療が悪い選択であるはずはない。でも、どうしても違和感が残りました。
 そうやって何度も考えていくうちに、もしかしてこれはハッピーエンドではないのだろうかとも思いました。ただ治療を受けたことにより、ルウがノーマルになって万歳というだけであるのなら、この回復したあとのルウの描写はなんてそっけないのだろう。本来であれば、その治療を受けたルウがノーマルと同じ感覚を手に入れたことによる戸惑いや変化を手術までと同じだけの分量で語られるべきでないのだろうか。また、同じ治療を受けたはずのベイリについて思わせぶりな言葉でしか語られないのはなぜだろう。なにより、ルウはマージョリイを失ってしまった。彼女への想いは消えてしまった。ルウは、彼女への感情に基づいた記憶を保持していたいと願っていたはずなのに。特定の犯罪者に対して暴力を振るうことがなくなるチップを脳へ埋め込む手術が肯定されているこの世界は、もしかしてとても恐ろしい世界なのかもしれません。わたしの考えすぎといわれればそれまでですが、わたしの感じた違和感について、解説の梶尾真治も触れているように思えます。もしかしたら文化的な差からくるものかもしれません。それは実際の読者ひとりひとりの受け取り方によって解釈が分かれることでしょう。わたしとしては、とても面白かったけれど、手放しで「良いお話」とだけ受け取るには、ちょっと奇妙なずれを感じる物語でありました。

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