「もいちどあなたにあいたいな」新井素子(新潮社)



 新井素子、実に八年ぶりの長編です。そのあいだに短編集なども出ていますが、シリーズ物(ブラックキャットが一冊出ています)をのぞけば、前作「ハッピーバースデイ」以来、八年。あの、わたしを戦慄させた「ハッピーバースデイ」から、八年です。「ハッピーバースデイ」がどれだけ恐ろしい小説であったかは、当時のわたしの感想を読んでいただいてもよくわからないかもしれませんが、いやあ、あれは恐ろしかった。普通のエンタテイメントとして成り立っていることと同時にダダ漏れの無意識を曝け出している(ように思える)作品を書くという意味で、わたしにとって新井素子はいまや一級のホラー作家であるわけですが、いまやというかこのひとはずっとそうだったのかもしれない…。かえすがえすも、このひとを見出した星新一は慧眼。おそらく当時は誰もがひっかかったであろうあの一人称「あたし」の文体は、そういう作家である為にも欠かせないものであったのだなあと思います。
 一般には少女小説のイメージが強いひとかと思われますが、わたしにとってはSFのひとでした。また、それ以外にも、少女小説とはまた違ったラインの小説群があります。「あなたにここにいて欲しい」「今はもういないあたしへ…」「くますけと一緒に」「おしまいの日」そして「ハッピーバースデイ」という、なんとも一筋縄でいかない、SFともいえるしサイコホラーともいえる、どこか昏い諦念がそこかしこに見られる作品たち。そして今回の作品も、そのライン上にある作品でした。
 大学生の澪湖には、大好きな叔母、和がいる。けれど、和は、長年の不妊治療の末、やっと授かった大事な一人娘を亡くしてしまった。周りには“強い”と思われがちな「やまとばちゃん」を心配して、家に駆けつけた澪湖と父、大介。しかし二人を迎えた叔母の様子に、澪湖は違和感を感じてしまう。そして見つけた叔母の背中の日焼けあと。それは数年前に残ったはずの痕だった。澪湖は確信する。これは、あたしの、やまとばちゃんじゃ、ないっ!
 まず言えるのは、とても面白く、するすると最後まで読める作品でした。この読みやすさはやはり伊達でない。そして、読み終えたあとからどんどん疑問が湧いてきてひっかかってしまう作品でもあります。以下、ネタばれ部分は保護色掲載にしています。
 そんなに読みやすいのに、何に引っかかるかといえば、なんというか、やっぱり一度お勤めとかしたほうが良かったかもしれないよ、もとちゃん、と呟きたくなる微妙なリアリティの無さに尽きます。これがもう、ひっかかってひっかかって。2009年の大学生とはとても思えない澪湖の行動や描写とか(たとえば映画のことで疑問があるなら、ずっと連絡を取っていないオタク男子の同級生に頼るより先に、まずはググるだろう。これに限らず、ネットやケータイがあると思えない世界だ)、40過ぎとは思えないくらい幼い澪子の父親とか、和という人物ににそういう意味でのリアリティが無いのは、物語の必然からくるものなので、仕方ないのですが、いちばんマトモに思えたのが、澪湖の母の陽湖だったというあたりは、単にわたしが年取ったからかしら…。彼女の視点が、和というキャラクターの存在により深みを与えているのは確か。
 しかしそれでも、「女の仕事だから」と、インフルエンザで39度の熱がある妻に夕食を作らせて平然としている男性像と大介というキャラクターがなんかうまく合わない感じがするけど、それは大介の幼さの表れのひとつと判断してもいいのかもしれない。こういう男性自体は、20年前の地方だったら有り得るキャラだと思う。でもそういう家だったら、まず、妻を働かせないと思うんだよな。これがあり得るとしたら、そんなことをしておいて、妻を排除して娘と共に妹が世界でいちばん大事ネットワークを作る男か、大介は。うん、わたしも離婚でいいと思うよ、陽湖さん。それにしても、澪湖と大介の父娘コンビは、わたしにはとても気持ち悪く幼く思えた。和のおねだりポーズとか、ああいうくだりも。それだけ読み手には魅力がないように思える大介が、和にとっては大事なヒーローというのが、もしかして最大の悲劇なのかもしれない。また、そもそも和の不幸な過去を澪湖が掘り返すことがどうやって可能だったんだろう。あの家庭で誰がそんなことを澪湖に教えるのかなあ。
 あ、でも、澪湖を助けるオタクの同級生、木塚くんのリアリティはすごかった…。いまのオタク男子はよくわからないが、80年代とか90年代に青春を送ったオタク男子がそのままいた。わたし、自分の兄を思い出し(略)。云うよね、こういうこと。やるよね、こういうこと。語っちゃうよね。話の進め方とか理論の展開方法が、素晴らしくオタクでした。そういやもとちゃんは80年代にオタクのお姫さまだったひとだった。しかし、そんな木塚くんが眼鏡の奥ではハンサム(21歳の女子がこんな言葉使ってるあたりでね、もう…)だというのは、澪湖にとっての王子様だからであろう。そしてこの木塚くんの「オタクを莫迦にするな。世界一繊細な人種だぞ。判らいでか」というセリフは泣けます。いいオタクだ。
 肝心の物語の流れと展開には「そんなバナナ」(ああもとちゃんに引きずられてわたしまで80年代に)と思いつつ、そこはそれ、そういうお話ですから!と思えばなんとか乗り切ることが出来ました。そういうところが少女小説っぽいというかラノべっぽいように感じる。なんというか「これはそういうお話だという前提」のもと作品世界が成立しているので、そもそもそんなことあるのかという根本的な疑問は不問にされてしまうようなところ。なので、余計にわたしは先述したような細部におけるリアリティは保持してほしかったと思う。なによりもまず、読み手には和の「玉突き事故」を納得してもらわないといけない、でないと、そういう運命にある和の哀しみや恐怖に共感できなくなってしまう。大きな嘘を信じてもらうためには、小さな真実で飾るのが定番なわけで、つまり、もうちょっとうまく騙してほしかった。それが惜しいのです。
 けれど、ここまで惜しい足りないと云い続けてきましたが、それで終われば、わたしはここまで感想を書かなかったわけで。うーん。なんというか、それでも見え隠れする、あちら側の空気というか、どうしようもない悲劇というか、その色には、どきりとさせられます。人間の幸福と不幸について、考えずにはいられません。一応、論理的なものとして用意された答えは、納得できるものでありますが、それでも本当は、まったく違うのかもしれません。和は本当に狂っているのかもしれない。新井素子の筆は、その可能性に読者が思い当たるだけの余地を、残しています。読者に考える隙を与えています。その感触が、やはりわたしには恐ろしいものだと感じられるのです。
 正直、8年ぶりの書き下ろしとしては物足りない部分もあった。けれど、やがてここからまた、長編を書く呼吸を取り戻してくれるのなら、それはどんなものになるかと思うのです。一般のラノベ読者やSFファンは読まないかもしれない。いま、この本を手に取るのは、少女時代にコバルト文庫に親しんで、その名前を覚えている人間だけかもしれない。しかし、そこに広がるのは、ジャンルに関わらず、物語をつづらずにはいられないひとりの作家の内面世界なのです。たとえそうは意識していなくても。世界の誰も思わなくても、わたしにはそう見えるのです。

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