「狂人失格」中村うさぎ(太田出版)


 
 私は、いつも「自分」のことを書いてきた。けれど、「自分探し」をやりたいだけやり尽くし、とうとう自分にも興味を失ってつまらなくなった私は、誰かを探すことにした。私の中の「私」を新たに発見するために、私がみつけたのは、ネットの海の中で自分の稚拙な文章を晒して、叫び続けている作家志望の「イタい女」、優花ひらりだった。当然、彼女は罵詈雑言を浴びせられ、ヲチされ、からかわれている。しかし、私は、そんな誰もが「作家になんかなれるわけがない」「ただの電波女」と嘲笑っている彼女を作家デビューさせて、彼女を笑い物にしているアンチや現役の作家たちに目にものをみせてやる、という気持ちになったのだ。それが、私が欲しくて欲しくて得られなかった「狂気をはらんだ非凡な作家」という評価を得ているあの女性作家への復讐となり、同時に、「作家先生」をあがめたてまつる人々への痛快な一矢となるはずだったからだ。けれども、ネットの中、一線を越えたポジティブさで攻撃を受け止め続けていた彼女との関わりは、私が予想したのとはまったく違う方向へと突き進んでいった…。
 という内容のこの本。もう本当に困った。読んでいるあいだ、ずっと眉間に皺が寄っていた。思えば、わたしがずっと愛読していた中村うさぎと距離を置くようになったきっかけが、雑誌「hon・nin」のこの連載を読んだことだった。そのときは、ほんの一部しか読んでいなかったのだけど、わたしもこのモデルとなっている女性の文章はネットで目にしたことがあったので(中村うさぎとか岩井志麻子を検索するとたびたび出現するのだ)、なんでこんなことをするんだろうと思ったのだ。そして今回その経緯をまとめた内容を読んだ感想も、うーん、本当に困った、としかいいようがない。自分自身に興味が無くなったから、次は他人、というのは別にいいと思う(一連の犯罪ルポ物は、主に犯人への感情移入の文章が、中村うさぎにしか書けない味だと思って、興味深く読んだ)。また、ネットでどんなに叩かれても「有名になりたいから作家志望」を続ける女性をテーマにするのもいいと思う。彼女と死ぬ気で付き合って、その本質に踏み込んで、なにが彼女をそうさせるのか、彼女という存在は何なのかまで文章で現わすことができたら、さぞかしすごいものになったかと思う。
 ところが、中村うさぎは、優花ひらり本人に直接「自分がどういう人間か」を赤裸々に語ってもらおうとし、失敗しているのだ。当たり前ですがな。それを本人にそのまま書かせてみようというほうが間違っている。それが自分で書けるような洞察力があるひとならば、そもそも中村うさぎの目に留まるような、ヲチ物件になり果てるわけがない。どこまでもはてしなく客観性を失っている人間だからこそ、他人にイラだちの感情を抱かせるのだから。けれど、中村うさぎは彼女が自分が思うようなものを書いてくれず、一方的に「有名作家になって河村隆一と対談したい」「本屋さんで『わたしの本を置いて下さい』って営業したい」と彼女が自己主張することに困りはて、辟易としている。そして、降ってわいた作家になれるチャンスに舞い上がった彼女の暴走により、優花ひらり作家計画は頓挫を余儀なくされてしまう。いや、そうなるだろう(真顔)。あるていどネットの世界と親しんできたひとならば、この結末には納得がいくはずで、むしろこの結末以外だったらそれが本になる。そして、わたしは、どうしてそれが中村うさぎにわからなかったのかなと思うのである。不思議なんだけど、中村うさぎはこれまでの作家生活で、こういう「有名作家になりたいです。書いたことないけど、アンアンの後ろに載ってるエッセイみたいなのだったらあたしも書けると思います」(森搖子が昔書いてた)みたいなひとと接触したことがなかったんだろうか。優花ひらりが、そういう悪気はないけれど世間知らずなだけの無邪気なひとたちとは一線を画す存在だというのはなんとなく分るけれど、一線を画したあとに存在している場所が、いかにも、その、やばい感じがするひとなんだというのは、あまりに明白じゃないか。
 ていうか、作家にしようとしている当の彼女の作品についてのコメントがいっさい無いのはいかがなものか。中村うさぎが要求して書かせたエッセイについては触れているが、作家志望の彼女が自費出版した本についての感想もない。もしかしなくても、読んでないんじゃないんだろうか。中村うさぎ本人も、自分が傲慢であり、自分個人の復讐心のために彼女という存在を利用するのだ云々と書いてはいるのだけど、それにしてもこれはあんまり。「処女作執筆中」という作家も過去には存在したけれども、中村うさぎがしたかったのは、そんなネタではないだろう。自分がひとになにかさせようという時に、相手がそれを可能な人間であるかどうかをまず確認するのを怠ってどうするのか。どんな小説を書きたいのかと問われても、具体的な構想はなにひとつ出てこない彼女について、「彼女は作家になんかなれませんよ」と憤慨するライターの女性は正しいだろう。中村うさぎはそれに対し「作家ってそんなに偉いもの?」とうそぶくけれど(しかも内心で)、それはホットケーキしか焼いたことがないひとが「パリでパティシエになるんです」と云ってるのを聞いてしまった、菓子店で働いているパティシエ(もちろん勉強したうえで資格を得ている)、が「菓子を馬鹿にすんな」と怒るのと同じ理屈だ。自分が愛する世界を軽く扱われたら、誰だって不愉快に思うんじゃないか。作家を有り難がってもちあげる輩がいるからこそ、自分が妬んでやまない女性作家がいい気になるんだ、などと云われても、困ってしまうよ。だって、そのひとの作品は誰かに求められ、愛され、読まれているのだから。字を書けるひとなら誰もが出来そうだと勘違いされやすいけど、実際にはなかなか出来ないことなのだから。
 そしてどこまでも話が通じず、客観的な視点が存在しない優花ひらりが、この本の後半で、本当に病気のひとだったと明らかになるにつれて、わたしは「やっぱり」という気持ちと、「どうしてそんなひどいことをするんだろう」という気持ちを中村うさぎに対して抱いてしまったのだ。そういう精神的な病にはあるていどの知識があるひとだと思ってたんだけど。確かに、優花ひらりとの接触は、中村うさぎが意図したような結果ではなかったにせよ、ある種の見識を彼女に与えた。最終章を読めば、それは明らかだ。おそらく、優花ひらりのなかでも、中村うさぎとの接触は「いつか共著本を出してもらえる」「有名作家になるチャンスがある」という、彼女自身の楽園を堅固に補強する材料となり、いまだにその夢は存在しつづけるだろう。けれどもやっぱり、これは幸福な出会いとはとてもいえない。手を出すべきじゃないところに手を出した結果、大したものも得られなかったというむなしい物語ではないかとわたしは思うのだ。そんなこと十分に分かっている、と中村うさぎはいっているような気もするけれど。
 そういう意味で、これはとても不幸な物語。けれど。そう、これを一冊読み終えて「中村うさぎも遠いとこへ行っちゃったなあ」で終わればそれでいいんだけど、なんだろうな。私の中で下世話な好奇心がむらむらと湧いてきた。こういうとき、自分は本当にどうしようもないと思うのだけど、やはり「おわりに」の文章を読むと、どうしてここにたどりついたんだろうと思わずにいられない。なんかやだなーと思って読まずにいたデリヘル体験を経て、さらにセックスの分野で自分を探してみたエッセイを読んでみれば、それも納得いくのかなと思うので、また今度それを読んでみようか。根本的にものすごく真面目な人だからこそ、ピントが狂うにしても、どこまでも真面目に馬鹿正直に進んでいったような印象がする。ので、肩の力を抜いて、またライトノヴェルが書けるようになれば、それで幸せになる気もするんだけどなー…。

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