「殺人者たちの午後」トニー・パーカー(飛鳥新社)



 Interviews with Twelve Murderers、という原題の通り、これは殺人を犯した犯罪者へのインタビュー集です。イギリスが舞台になっているので、日本とは司法制度が違い(死刑制度がないかわりに釈放後も長く監視が続く終身刑が存在する)、戸惑うところもありますが、それは読み進めていくうちに自然と理解できていくようになっています。
 犯罪者へのインタビューということで、普通に予想されるのは、己を失ったようなサイコな言葉やたち振る舞いであったり、激しい憎しみや裏切りといったドラマティックな内容ですが、この本にはそういうものは見受けられません。語られている内容としては、憎しみや裏切り、目を背けたくなるような残酷な行為も確かに存在するのですが、それでも、そこにあるのは、ひとりの人間が、自分が過去に犯してしまった取り返しのつかない過ちを振り返っている、シンプルな言葉です。永遠に続く地獄のような苦悩に憑依されているひともいれば、過去は過去と割り切って、未来しか見つめていないひともいる。深い後悔の末、おずおずと新しい人生への第一歩を踏み出したひともいれば、永久にその場所で足踏みを続けているような危うさのなかで揺れているひともいる。
 それらの人々の人生が、より深くこちらに迫るのは通常のインタビュー形式ではなく、一人称の語り(モノローグ)として表現されているせいだと思います。インタビューではありますが、インタビュアーの視点はごく最小限に抑えられ、読み手は、かれらの語る言葉に自分が耳を傾けているような錯覚に陥ります。まるで、かれらがはじめてこの話をする相手として、自分を選んでくれたような、そんな錯覚。
 多くの溢れる言葉(しかしおそらくはぽつんぽつんと選ばれながらこぼれていった言葉たち)、語られていくストーリーの多くは、ひとがひとを殺すという罪の重さ、その運命の痛ましさを感じさせずにはいられないものばかりです。なぜ、あのていどのことをきっかけに、自分は「あれ」をしてしまったのだろう。そして、なにより恐ろしいのは一度、道を踏み外した自分は、また「あれ」をしてしまうのではないか、ということ。反省もして神にも誓ったけれど、一度「あれ」ができたからには、もう一度、自分は「あれ」をしてしまうのではないか。誰よりもまず自分を信じることができないという苦悩のなか、殺人者たちは、それでも生きていかざるを得ません。それこそが罰であるといわんばかりに。
 こうやって書くと、殺人者たちに同情的な本かと思われるかもしれませんが、けしてそういう単純なことではありません。ただ、時に、さまざまなめぐり合わせの中、どうしても逃げ出せない蜘蛛の巣にかかったような生き方を選択してしまう人間もこの世界にはいるのだということ。そして、それは特別な人間というわけでなく(たとえサイコパスであっても)、わたしたちと同じような顔をして、同じ生活をしていたとしても不思議でないこと。わたしたちもまた、かれらと同じものを見て笑い、悲しむことがあるのだということ。そういうことを現わしているような気がします。しかし、それは悲劇です。あまりにも辛い現実です。
 かれらひとりひとりの長い語りに耳を傾けているうちに、かれらの言葉が自分の言葉のように感じられる部分もあれば、まったくそうでないところもあるでしょう。人間と人間が、完全なかたちで理解しあうことはとても難しい。けれど、まったく断絶しているわけでもない。自らの隣人がそういう過ちを犯すこともあれば、もしかして自分も同じ罪を背負うことがあるかもしれない。だからかれらに温かい手を差し伸べて、ということではまったくなく、善悪の判断をすることもなく、著者はかれらの言葉をわたしたちに届けます。それをどう解釈するかは受け手のわたしたち次第でしょう。
 こういう本が世に出て正しく理解されるためには、訳者の力量もそうとう大事だと思います。訳者の沢木耕太郎は、彼自身がノンフィクションの書き手として著名ですが、かれにもまた殺人を犯した少年を主人公にした「血の味」という傑作があります。抑制がきいた文体で語られる、少年の殺人への道のりと、そこに秘められた謎がゆっくりと解かれていく内容にとても感服した覚えがあります。この本がお気に召したかたは、ぜひそちらもどうぞ。

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