「異形の愛」キャサリン・ダン(ペヨトル工房)


 自前のフリークショウを行うために、ありとあらゆる方法を使い、自前のフリークとしての子供を作り続けたパパとママ。兄のアルチューロは通称アザラシ少年、ヒレ型の両手足は腕も脚もなしに胴体から直接生えていた。姉二人、エレクトラとイフゲニアはシャム双生児で、完全な上半身同士が腰のところでくっついて、ひと組のヒップと足を共有している。わたしは、ピンクの目をした白子のせむしで髪がなく、弟フォーチュネイトは一見まるっきりフツウにみえたけれども、パパとママの最高傑作だった。わたしたちはショウを行うため、アメリカ全土を回って旅をした。やがて、兄弟は成長し、パパとママは老い、ゆっくりとなにかが変化していった…そんな昔を思い出しながら、わたしは同じアパートに住んでいる自分の娘のあとをつける。わたしの娘、ミランダは、もちろんわたしが母であることを知らない。
 ざっと書いたこのストーリーだけでも、おなかいっぱいのひとはいるかもしれません。こういうの無理、なひともいるでしょうし、逆にこういうの好き好き、と思うひともいるかも。フリークという存在は、持って生まれた当人の意識とはまた微妙にずれたところで評価され、おかしな偶像視をされることも多いと思います。医学と人権意識が発達した現在においては、あからさまなそんな視線は少なくなったと思いますが。
 もちろんこれは小説で、ドキュメンタリーでもなんでもありません。なので、その物語からこぼれおちる様々な知見を自分がどう受け取って扱うのかは、その読み手次第です。その視点や設定でなければ語る意味を持たなかった物語なのかもしれないのだから。
 ただ、わたしはこういう存在でなければ成り立たない話であることを十分に承知しながらも、あまりにスリリングでリーダビリティの高い展開に夢中になって読み続けたというところが正直なところです。グロテスクに思える設定や場面も、小説だからこそ、頭のなかで自分が耐えうる映像に変換することができます。だから、解説で映画化の話があって、しかも監督はティム・バートン、などと書かれているのを見ると、その人選に納得しつつも、それはどういうものになるだろうかと思わずにいられないのです。ていうか、いまはCGでいくらでも造り上げることができるので、かえっておとぎ話めいた雰囲気になるかもしれない。本物を連れてきた「フリークス」と同じにはならないでしょう。
 かなりの厚さがある本です。フリークとして生を受けた語り手のわたし(家族みなで暮らしてきた過去のなかでは、彼女はまだ10代なのです)の、少女らしい家族への感情と、家族みなを従える存在として成長していく長兄アルチューロ、愛らしくもしたたかなエリーとイフィー(イフィーが語るフツウの男の子への愛の断念の重さと哀しさに、わたしはうちのめされました)、最高傑作としての力を持ちつつも、生命を壊すことをなにより恐れる純粋なフォーチュネイト、かれらの運命を読み続けていくうちに、現在のオリーが選んだ結末の重さに、ため息が出ます。そして、この家族以外の登場人物も、実にくっきりとキャラクターが際立っていて、退屈させられることがありませんでした。
 大胆な設定にたじろぐことなく、読んで頂きたい本だと思います。出版社が無くなったため、Amazonでは品切れなうえ、えらい高値になっていますが、図書館にはあると思いますので、興味をもたれた方はぜひ検索してみて下さい。

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