「教科書に載った小説」佐藤雅彦・編(ポプラ社)



 「バザールでござーる」「ピタゴラスイッチ」などで知られるメディアクリエーターの佐藤雅彦氏が選んだ、国語の教科書に掲載された小説のアンソロジーです。読書好きなこどもなら、他の教科はともかく、国語の教科書だけは4月に受け取ってすぐに全部を読んでしまったり、感想文に力が入ったり、ついうっかり二次創作したりと(ごほごほ)いう思い出があるのではないでしょうか。まず、教科書に載った小説というと、イコール退屈というイメージがあるかも知れませんが、かなりの基準を突破して選出された作品であることは間違いありませんし、いま、大人の目線で読めば、あとがきで佐藤氏が記している通り「誰かが、人が育つ過程に於いて通過させたかった小説」であることを感じます。そんなの選んでもらわなくてもかまわないよ、という考えもあるかもしれないけれど、わたしなどは最近めっきり年を感じることが多いせいか、子供に読むことを勧めることが出来る小説を選べるならば…と自分でもあれこれ考えてしまいました。高校生には森茉莉の「私の美の世界」からの抜粋なんてどうでしょう。
 自分の思い出を振り返ってみるならば、どっちかというと詩歌のほうが印象深いのですが、それは、教科書でもなければ、自分から詩歌に触れることがなかったせいのような気もします。いまの教科書にも、伊藤比呂美や穂村弘とかが掲載されればいいな。いま、なにも検索せずに思い出せる、教科書に載っていた文章で印象に残っているのは中村光男の評論とかです。小説においては、文豪の作品とのファーストコンタクトとして役立ってくれたような気がします。太宰治「富嶽百景」(URL)、夏目漱石「こころ」(URL)、森鴎外「舞姫」(URL)「高瀬舟」(URL)などは、教科書で読んだあとに、自分で単行本を読み直した覚えがあります。中島敦「山月記」(URL)なんて、思春期に読んでおいて本当に良かったと思う。小学校とか中学校の頃に読んだ、一部しか覚えていない作品も思い出深いなあ。ワニが小鳥をうっかり食べてしまって、ニガヨモギを口に入れたまま太陽にあぶられつづける話とか。というわけで、あれこれ思い出すことは多いのですが、この本のなかの作品も覚えているものは半分くらい。以下、印象など。
 永井龍男「出口入口」は、なにか取り返しのつかないことが行われてしまったような喪失感が雪のなかにまぎれてみえなくなってしまうような読後感を残す作品です。こどもに読ませるにはちょっと大人すごる気もするけれど、この不思議な凄みは、それが何であるかを理解できなくとも、心になにかを残す気がします。松下竜一「絵本」は、ほぼ完全に内容を覚えていた自分がどこに萌えていたかは忘れていたかったような(本当にごめんなさい…)作品で、再読しても、あの頃と同じように胸に残るものを感じました。菊池寛「形」(URL)は、短いけれど、はっきりした教訓を教えてくれるような作品で、自分もはっきり覚えていました。安部公房「良識派」は最後の一行でぞっとして、いつまでも嫌な後味が消えません。吉村康「父の列車」は、一瞬、列車から見えた父の姿が鮮烈なイメージで記憶にありました。横光利一「蝿」(URL)も、横光利一とは覚えてなかったけれど、視点の切り替えとラストのあっけなさが、余計に印象深かったのを思い出しました。
 佐藤氏がどうしてこのようなアンソロジーをくむことになったのかという理由は、あとがきに記されていますが、ちょっと胸が熱くなりました。どんな場所にいても、どういう状況にいても、やはり、物語を必要とする人間は存在していて、そこにそれを届けようとする人間もまた存在するのだと感じます。短い作品ばかりだし、読んでいて思い出すことも多い作品があるのではないでしょうか。国語の授業はともかく、教科書は嫌いでなかったあなたならおすすめです。

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