「最初の恋、最後の儀式」イアン・マキューアン(早川書房)



 桜庭一樹の読書日記(「書店はタイムマシーン」「お好みの本、入荷しました」)で、たびたび名前が出ていたので気になった作家です。とりあえずいちばん最初の短編集であるこの一冊を読んでみました。全部読み終わった後で、1975年の作品と知り、たまげました。35年前の作品とはまったく思わなかった。
 ホルマリン漬けになったペニスの瓶や、好奇心から10歳の妹とのセックスを試みる14歳の兄が登場する(タイトルが「自家調達(Homemade)」っていうのがまたひどい)などが登場する作品が続いて、まあぶっちゃけ紹介されていたそのアクの強さに興味をもったので読む気になったわけですが(下世話上等)、それでも、こればっかりでもなあと思っていたところ、読み進むにつれて、じっくりとそれだけでない世界が現れてきたような気がします。以下、気になった作品を。
「夏が終わるとき」
 両親亡きあと、遺された家を一種のコミューンとした兄と、何人かの人々と暮らす12歳の男の子「ぼく」。その家に新たな一員として加わったジェニーという女性にコミューンのメンバーの赤ん坊アリスがなつき、「ぼく」もまた、コミューンに馴染みきらないジェニーとの散歩を楽しむようになる。かれらが過ごした一夏とその終りを描いたこの一作は、奇妙な環境ではあるものの、人物造形や展開には、そうアクの強さは見受けられず(ジェニーが病的に太っているというビジュアルイメージは強烈ですが)、むしろ、少年が乗るボートについての思い入れや、小川のきらめき、一瞬の夏が通り過ぎて終わってしまうことへのセンチメンタルさを感じました。そしたらあのラストが。ラストが。このラストだからこそ、さらにはかない夏の空気がより色濃く残って、消え去っていくのを感じることが出来たのかもしれませんが。
「蝶々」
 孤独な中年男性が初めて死体を見たのは土曜日だった。とてつもない孤独は、否応なしに人間の精神をむしばむもので、それに安易な気持ちで触れることは自分もまたそれにむしばまれる可能性を引き受けることになるのかもしれないと思いました。微妙に的外れな感想かもしれませんが。いわゆるサイコものとしても、すぐれていると思います。
「押入れ男は語る」
 母親に溺愛されたあと、放り出された男が見つけ出した安らぎの場所とは。アクが強いと言えば、間違いなく強いのだけど、近親姦だのペニスの瓶詰だのより、ある意味、もっと気持ち悪く、そして有り得る話。人間が人間をコントロールし、己の欲望のままに利用とすることの悲劇と醜悪さを感じます。これはとても気持ち悪い。けれど、押し入れ男は、いまの世界にも確実に、いる。
「最初の恋、最後の儀式」
 夏という季節の中、恋人と絡み合いながら、ぼくは見込みのない鰻の仕掛けを作り続ける。壁の裏から、どこかから、聞こえてくる怪物の這いずりまわる音を聞きながら。どこにももう行くところはない。行き止まりの夏が過ぎていくなか、板張りの床の冷たさやコンクリートの感触、腐敗していく肉の香りを、わたしもまた嗅いだような気がします。そしてあの怪物の息の音も。幻想的な雰囲気に満ちながらも、かれらが存在するのはたしかにこの地球であり、わたしたちと同じ空気を共有しているのは間違いないと思えるリアリティのなか、この行き止まり感に一瞬、風が吹き抜けるようなラストが救いです。
「装い」
 引退した女優を義母として、育てられる少年。彼女との生活にはたくさんのお楽しみがあった。あくが強いとかインモラルであるというのならこの作品が一番かも。むせかえるような白粉や、レース、フリルとアルコールの匂いを漂わせながら、少年を自分の世界に引き入れて離そうとしない魔女のような義母のおぞましさは、同時に魅力的でもあるはずで、だからこそ、作品の中で少年がワインを飲んで悪酔いしてしまったあとのような、ふらつきとめまいを読み手にもたらすのです。濃い。
 どの作品も、確かにあくが強いことは間違いない。けれど、自分に合う外国文学を読むときに、わたしが感じる、理解しきれないけれど、それでもつながってる感、とでもいうような感覚を感じました。この作者の他の作品も読んでいこうと思います。

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