「小川洋子の偏愛短篇箱」小川洋子・編(河出書房新社)



 「博士の愛した数式」などで知られる作家、小川洋子が、自分の好きな短篇を集めたアンソロジー。わたしは小川洋子については、何冊か読んだことがあるかな?レベルです。しかし、このアンソロジーを読み通して、その選出眼の高さに驚きました。ほとんどが高名な作家の作品ですが、その作品を読むのは初めて、なものが多かったです。粒の揃い具合が素晴らしかった。もちろん、選りすぐりの作品を並べるからこそのアンソロジーなので、出来が良くて当たり前なのかもしれませんが、それでもこれは面白い。とくに一定のテーマで統一されているわけではないのですが、なんとも表現しがたい、ほの暗い雰囲気で統一されていて、まさに「偏愛」と呼ぶほかはない、偏りを感じます。
 既読だったのは、内田百?「件」(幻想と寓話が溶けあってたどりつくひとつの地平にともる灯りのような作品)、江戸川乱歩「押絵と旅する男」(代表作です。乱歩の持つ、ロマンティックな妄執とでも呼べるような雰囲気が溢れていて、好きです)、森茉莉「二人の天使」(わたしの神様なので。本当に美しい文章というのはこういうものをいうのです)、武田百合子「藪塚ヘビセンター」(自然でありのままだからこそ、本質を浮かびあがらせることができる視線が心地良い文章です)、三浦哲郎「みのむし」(以前、別のアンソロジーで読んだことがあり、本当に厭な気分になった。今回、収録されているのに気づいて、読み飛ばそうと思ったけど、それも出来なかった。同じようなテーマの作品は、いまの日本に溢れているだろうけど、こういう表現ができる作品は少ないと思う。ああ)などでした。以下、それ以外で印象に残った作品をご紹介。
「兎」金井美恵子
 自分と同じくらいの大きさの兎が走ってくるのを見た私は、それを追いかけずにはいられなかった。しかし、それは本物の兎ではなく、兎そのものの白い毛皮をかぶり、桃色の瞳をした少女だった…。高名な作家でいらっしゃいますが、それだけに、聞こえてくる評判からはなんだか敷居が高いというイメージがあって、敬して遠ざけてきた作家です。が、一読して納得。これだけの実力を見せられたら、それは評価されます、という感じで平伏いたしました。こういう残酷な御伽噺と呼べるような、生理的に恐ろしくも読み手を魅了せずにはいられない作品に、他に言葉はありません。敬して遠ざけてきた作家への姿勢をそのまま、敬して近づけたいような出会いになりました。
「風媒結婚」牧野信一
 望遠鏡製作所に勤める青年が密かに見出した愉しみとは…。その秘密の内容だけで勝負するならばありふれた話だったかもしれないけれど、その青年の心性と行動の微妙な奇妙さが、ありふれた話とはほど遠い感覚を読み手に与えてくれます。それは、さながら高い場所で感じる、ちょっとしためまいにも似ています。孤独を愛しつつ、現世では不器用に生きている青年のまなざしが、見つめているものの本当の正体はなんなのでしょうか。
「過酸化マンガン水の夢」谷崎潤一郎
 最初は文豪の随筆らしく、食べ物や芝居見物などの身辺雑記について饒舌に語っていた内容だったのです。それが、不眠からはじまるゆるい夢へとたどりつき、自然にそこからちぎれかけた糸でつながったようにたどりつく連想がたどりつく展開が、読み手になんともいえないかすかなえぐみにも似た後味を残します。あーもう、やっぱりすごいよ谷崎…。
「花ある写真」川端康成
 やっぱりすごいよ川端…(続いているのかこれ)。いや、こういうすぐれたアンソロジーで、すでに評価が定まった文豪のすごい作品に出合うと、やはり平伏して溜息をつきたくなるのは致しかたないかと。川端の幻想風味が強い作品は昔から大好きですが、これは初読で、そして恐ろしい作品でした。高橋葉介でマンガ化してほしい
「雪の降るまで」田辺聖子
 冷えた雪の風景がいつまでも目に残る痛さとして存在し続けるような余韻を残す作品です。自立した中年の女性の身体を芯に置いた恋愛を語って、生臭くなるぎりぎりで踏みとどまっているような作品です。女にこういう世界があることを、女がこうやって生きていけることを、彼女を腕に抱いている男ですら、知らないでしょう、と誰かと囁き合いたくなるような、秘密の空気に満ちています。
「お供え」
 実はいちばん肝が冷えたというか、恐ろしく、でも惹かれる内容だったのが、この作品です。夫を亡くし、一人で暮らす家の前に、コップに入れられた花が毎日、置かれる。迷惑に思ったわたしが、なんとかしようと画策しても、それは途切れることなく続いて…。要所要所に置かれた言葉の意味が、ほどけるように開かれるときに、ぞっとする。日常と非日常のあいだが、何気なく踏み越えられたことに誰も気づかない、そんな朝が訪れる恐ろしさに、作者の底知れない才能を感じました。本当に、すごい。
 小川洋子自身の選出された作品に寄せたエッセイも楽しむことが出来ますが、まずは、読み応えのある短篇たちに心おきなく酔えばいいのでは。小説を書くということが、並々ならぬ才能を要すること、言葉を紡ぐことによってあらわすことが出来る世界の豊かさにまで思いを馳せることができる、芳醇な世界がここには広がっています。おすすめ。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする