「私的生活」田辺聖子(講談社)



 「言い寄る」(感想はこちら)が素晴らしく楽しめたもので、わくわくしながら続きを読んでみました。これは「言い寄る」にはじまる、デザイナー乃里子を主役とした三部作の二作目にあたり、一作目で出会った剛と結婚した乃里子の生活を描きます。
 「言い寄る」が上等な焼き菓子であるのなら、こちらはさしずめ上等な洋酒に長い期間漬けられた果物のコンポート、でしょうか。口の中で甘く蕩けて消えていく感触を楽しんでいるうちに、思いのほか濃いアルコールに心地よく酔ってしまい、なぜだか昔のことを思い出して泣けてきてしまうような、甘いだけでない、せつなさ。お酒に漬かって色が濃くなる前の生の果実では味わえない芳醇なコクのようなものを感じました。これはとんでもなく大人の小説であるのではないでしょうか。
 わたしもそれなりに人生経験を積んできたつもりで、作中の乃里子よりも年上になっているにも関わらず、こうやって人生を見通すような物語を読まされると、まだまだ色んなことが足りないんだろうなと思わされる。この作品の乃里子は、前作そのままの、生きていることを純粋に楽しみつつ、可愛らしさや美しさというものにうっとりすることを知っている、あの生き生きとした女性のまま。なのに、そんな彼女が夫との生活で、自分が行っている夫のためのからくりに気づきはじめては、薄眼でそれを見逃している。そんなことを、彼女らしさを失わないままで行っているところが余計に、避けられない運命を予感させられ、読み手として実にひやひやしてしまった。ええ、熱中して読んでいるあいだは素直に「あたし乃里子」状態ですから。酔った乃里子が、いつ夫がやってくるか分からない場所で、あいまいに他の男を誘惑しかける場面など、実にスリリングだった。
 そう、乃里子はいつでも、後先などたいして考えず、楽しむこと以外の自分の感情に真剣に取り合うことが無いままで、夫との生活を楽しんでいる。けれど、それでもゆっくりと、自分が閉じ込められている場所に気づいていく。それは、乃里子のような感性を持つ女性でも、避けられないことなのだなと溜息が出そうになった。時代もあるかもしれない。おそらく、この小説が発表された昭和51年では、剛の行動はたいして見咎められるものでなく、間違ったことも言っておらず、むしろ、この時代の男としては、たいへんに柔軟で、可愛らしいところがある男性なのだ。だけど、それでも、駄目だったのだ。
 剛が、かれとしては当たり前の要求を乃里子に告げて、その頃から乃里子が様々なことに気づいていくくだり、さらにはあの二人の旅行の場面にいたるあたりで、わたしは涙を浮かべてしまった。乃里子が可哀そう。手足をもぎ取られていくように、あの乃里子が自分らしさを諦めていく。納得のうえでも、自分の人生を見捨てていく。こんなに哀しいことがあるだろうか。なにも余計な描写を付け加えない、旅行での二人の会話の場面が実にリアルでせつない。恋が終わるのは、そういうことだ。憎しみとか嫌うとか、そういうことで終わるのなら、きっとそっちのほうが楽なのだ。これまで見ないふりをしてきたことが、すべて眼に入って誤魔化しきれなくなり、そのことをとうとう相手に告げなくてはいけなくなる。乃里子がいまの自分の気持ちを夫に告げた、たった一言の台詞は、恋の終わりを表現するのに、これ以上ないほど正直で、誠実で、けれど、残酷な言葉だと思う。でも、本当に、これが真実なのだ。
 しかし、この小説は、それだけの人生の機微を伝える内容でありながら、深刻ぶることはありません。生活の中の小さな楽しみや喜び、ふざけあいや笑いがふんだんに散りばめられて、気持ちよく楽しく読めることは前作と変わりありません。辟易としてしまうようなひとは存在しても、気分が悪くなるような悪人は登場せず、読んでいて、愉しいなあと思います。良い小説を読んだと思いました。

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