「ほら、あの『アレ』は…なんだっけ??私の記憶はどこ行った?」マーサ・W・リア(講談社)



 アメリカの医学系ノンフィクションライターである著者による、ある年齢に差し掛かった人間ならばかならず直面する、記憶力の減退と物忘れについての本です。タイトルが示す通り(ちなみに原題は“Where Did I Leave My Glasses”ーメガネをどこに置いたっけ?)、身近な例を上げながら、日常で起こりやすい物忘れや記憶に関するトラブルについて、その原因やそれへの対応、また、記憶に関する性差や病気、今後の見通しなどを、分かりやすく語っています。記憶ということはつまり脳科学、しかもアメリカの医学系ノンフィクションライターの書いたもの、ということで、難解なものを予想されるかたもいらっしゃるかもしれませんが、具体的な例がふんだんに挟み込まれるうえ、著者の語り口が、本当に物忘れに頭を抱える世代にさしかかったおばちゃん的テイストに彩られているため、気楽なエッセイを読むのと同じく、楽しく読めます。
 わたしも著者よりは年下ですが(これまでは自分の年齢について触れるときは、いつも、楠本柊生帝國元帥よりは年下です、と書いてきたけれど、もはやそれがなんのフォローになるのかという年齢ですな…)、日常生活での物忘れにはときどき直面し、そのたびにあわてます。10代のときは、なにかのフレーズや台詞を思い出したときにはすぐそれが何からの引用かを思い出せたものですが、その能力は失われて久しい。かつて覚えたはずのことも、20代になってから覚えたことは、さらさらと指の間をすりぬける砂のごとくにこぼれ落ちていくのを感じます。たとえば、ねえ皆さん、いきなりVol.21の副題を云える?ってきかれて即答できますか。もっとも、そもそもの特性として、うっかりの物忘れとか置き忘れとかは多い人間だったもので、この本でも紹介されている、それらを防止するための有効な方法はすでに実行しておりました。あのね。「物の置き場所を固定する」「メモに頼る」「自分を信用しない」これ最強だから。
 しかし、こうやって記憶とそれにともなう脳のメカニズムについて教えてもらうことは、とても興味深い。アルツハイマーの症状と加齢による物忘れの違いについて、とか、人間は自分にとって都合のよいように記憶を嘘で上書きすることがある、とか、メンタルトレーニングはどこまで有効か、など、普通に生活している人間がまず知りたいと思うことが、最新の研修や知識にもとづいて、分かりやすく面白く語られています。歴史的な事件が起こったときに、自分はどこで何をしていたのか、という記憶がくっきりと残る現象「フラッシュバルブ記憶」というものも面白かったです。アメリカ人にとっては、911の同時多発テロや、ジョン・F・ケネディの暗殺、などが挙げられるようですが、日本では、阪神大震災や地下鉄サリン事件などがあたるでしょうか。そう思えば、確かに、その事件があったときに、自分は何をしていたのか、それを伝えるニュースをどこでだれと見たのかということは、はっきりと思い出せます。記憶って面白い。そして、それに向き合って、なんとかそれを思うままにしようと取り組んでいる科学者たちも、実に個性豊かで、面白いのです。
 最終的には、記憶の未来として、外付けハードディスクというものまでもが夢想されているのですが(「攻殻機動隊」そのまんまですな)、もちろん、それはあり得る可能性のひとつに過ぎず、いまのところは、記憶力の減退を決定的に遅らせるためのサプリや薬も存在しない。90歳を越えても、若者と同じような記憶力を持つ人々は確かに存在するけれど、遺伝と環境の関係も、そのものずばりな答えはまだ見いだせない。ならば、この本のなかでも、具体的に挙げられている記憶術や、老化を防止するための黄金律(適度な運動、規則正しい生活、正しい栄養)に従うしかないようです。しかし、それが分かっていても、なかなかうまくいかないからこその人間ですから、この分野はこれからもまだまだ、発見と発展が見つけられそうな分野だと思います。そういう意味で、日常の物忘れが気になったことがあるひとはもちろん、記憶や脳のメカニズムに興味があるひとにも、おすすめです。科学的な基礎知識に自信がないわたしでも、とても楽しく読めました。

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