「もうひとりのわたし」岸田今日子(青土社)

『F子を覚えていらっしゃいますでしょうか』
 電話の向うで、控えめな中年の女の声がそう言った。そしてその一瞬の間にわたしの中で、F子の何もかもが渦をまいて、あふれた。
(P5より引用)
 これまでにも何冊か読んできました(「二つの月の記憶」などの感想はこちら)岸田今日子ですが、この作品は、彼女の唯一の長編です。桜庭一樹の読書日記で紹介されていたのですが、すでに絶版ということだったので、図書館で借りてきました。Amazonでも取り扱っていませんし、Wikiにも著書として挙げられてません。巻末の記載によると、1988年、「ユリイカ」連載の作品とのことです。
 女優である「わたし」のもとに、突然かかってきた一本の電話。それは、小学校の同級生だった友人が死の床にあることを知らせるものだった。彼女と数十年ぶりに再会した「わたし」は、彼女から、一冊のノートと謎めいた言葉を受け取る。「あなたは、わたしよ」「わたしは、あなたよ」。彼女と別れたあと、「わたし」は原因不明の発熱のなか、繰り返し夢を見て、過去の記憶をたどっていく…。
 これがまあ、あなた。恐ろしくてね。
 よく、怖い物語を例えて「悪夢のようだ」などと表現しますが、これはまさに悪夢の物語です。風邪を引いたときの、ぼんやりとした微熱のなか、現実と記憶の風景が混在して、あいまいな夢となって現れる、そんな感覚。誰でも覚えがあるであろう、そういう曖昧な感覚に腰までつかって語られる、ひとつの愛情と執着の物語。象徴として現れる存在のひとつひとつが丁寧に謎解きされることはなく、その説明の放棄が、さらに夢を夢らしく彩ります。望んだ時に覚める事が出来るなら、夢は夢として扱う事も出来るでしょう。けれども、その夢が過去の記憶とどこまでも地続きで、いまの生活の裏側にもぴったりと張りついていたとしたら?
 本業は女優であった著者にとって、小説を書くことはあくまで余技だったはずです。もしかしたら、余技だからこそ、そして、女優である著者の実生活が色濃く反映されているからこそ、この小説はとても恐ろしいものになっているのかもしれません。なぜなら、ここで書かれていることには、十分に事実も含まれ、自伝的な要素もあるのです。もちろん、事実に反したことも多いのですが、それこそ、読んだ人があるていど誤解するかもしれないくらいには、赤裸々に語られているととられる部分は確実にあると思います。職業作家には、こういう方法論はとれないのじゃないかな。
 なにより、わたしは、昭和の時代の女性にとっての「性」の重さと禍々しさを強く感じました。性欲と、それにつながるものが、呪いのように重苦しいものであった時代。けれども、それが確実に存在していたことも、誤魔化せない苦しさ。それを表現することが、こんなにも暗くねっとりとした熱さを持つことが、とても印象的でした。
 絶版ですが、図書館で探せば見つかることもあると思います。繰り返される夢の再構成と、少女同士の支配と被支配の力関係(百合と表現するには、その、あまりにも執着が濃い)、怖い話がお好きな人には間違いなく、おすすめです。

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