「休暇は終わった」田辺聖子(清流出版)



 私は、寝るときは髪を三つ編みにする。それをひねくりながら、考えごとをする。
「何を考えてんのん」
 私が黙ると類はすぐ、いう。そんなことをいう人、自分の中がからっぽな人。

(p114より引用)
 23歳の類と一緒に暮らす31歳の少女小説家である悦子。恋人としては楽しいが、嘘つきで、お金にだらしない若い男。かれトの生活を細かいことに眼くじらたてず楽しんできた悦子だが、ある日、かれの父親と出会ったことにより、その生活と恋の行方が変化していくことになる。そういうお話です。
 さくさくと、甘いお菓子を食べるように、田辺聖子の小説は、恋愛の美味しさをそのまま差し出してくれる。恋愛は人間がするものなので、人物描写に説得力が無かったら、いくら綺麗に語られても、意味がない。そんな当たり前のことをしっかりと思い知らされる読書体験です。いや、本当に巧いです。この深みはなんだろうと思う。田辺聖子が描く主人公は、ざっと見ると、どの女性も同じようだけど、ちゃんとそれぞれの個性を持っています。つまり彼女の眼に映る男性たちも、それぞれ違う人間であります。人間がひとりひとり違う、などということは当たり前のことでありますが、それが当たり前でない物語がどれだけあるか。それもことさら個性をむき出しにすることもなく、どこにでもいるような人々であるのに、類型でない。類型の枠にはまりそうでいて、本当は、同じひとはどこにもいない。彼女の小説に住むのは、そういう人々です。
 だからこそ、仕事が続かず、嘘つきで、ぶらぶら暮らす類の狡さとだらしなさを誤魔化し無しで表現しつつ、それが同時に、なんとも可愛く、なにより恋愛の仲になったときには、素晴らしく息が合う素敵な恋人であることも説得力たっぷりに伝わってくるのです。そうなの。なにもかも真っ黒で最低の人間ならば、誰も恋には落ちないし、誰かと恋することはかなわない。なにより、類は自分が望んでの悪人ではないし、小狡さでもない。そしてなによりも、それを見通す31歳の悦子の大人としての視点の鋭さが、ちょっとばかり怖くて、せつない。恋は盲目、のはずなのに、大人として生活していくと自然とそうはいかなくなる、そのリアリティに、震えます。こんなにも楽しく、我を忘れて振り回される甘い空気のなかでも、悦子は類の淋しい未来を見ます。それが、自分よりも年下の男を愛するということなのかもしれない。
 そして、年上の男である入江も、いっけん、物の分かった中年男という類型に入れられそうで、その範疇からするっと抜け出てしまうような、癖のある男です。こどもの頃から不良であった類に、父親として手を焼いたあとの述懐をさりげなく悦子に語る場面があるので、ちょっと引用します。
「昨日・今日のことやないから。七、八年、腹を立てさせられ続けてるとね。実をいうと、かなり前にもう、精神的に切ってしもたから。私は、切っても切れぬ親子の絆、なんてことを信じない一人ですよ。絆、というのはふしぎに、子供の方が信じてるので、親はそう思うとらへんのやから」
 入江は笑ったが、それは、陰惨な、嘲笑ではなくて、男らしい乾いた笑いだった。
「子供がきいたらビックリするでしょうね」
「子供の方が甘いからね。切ったとなると親は強うて冷たいものですが、子供は理解せんでしょう。まして、世間に理解させるのは、むつかしい」
(p201より引用)
 …わたしは、この場面が入江の人格の好ましいところも寂しいところも全部現わしているような気がします。そして、こういうやりとりを、息子の恋人と出来る男のくっきりとした個性にため息をつきたくなります。なにより実は世にこういう親はたくさんいるはず。これとは逆に、子供にすがりつく親の話はよく聞きますが、こういう親の言葉が、生身の言葉で語られることは少ないように思います。なのに、とても自然で、ああこういう人もいはるわ、と思わされる。うまいなあ。
 ストーリーだけを拾うと、二人の違う男のあいだで揺れ動く話かと思われそうですが、それはそれでちょっと違うのですよね。悦子はもっと冷静に、自分の想いに涙を浮かべる気持ちになりつつも、恋の相手が自分になにをしたか、何を与えて何を奪ったかというところまで、自分の頭で考えて、受け入れていく聡明さを持っています。感情的にはがんがん振り回されるつつも、理屈と事実で、現実を見据えていく彼女は、年下の男にだまされようと、少しもみっともなくない。頭が悪いと思わない。そういうこともある、と思います。生きて、恋をするというときには、そういうこともある。
 人間がみな正しくて間違ったことをしないなんてこと、あり得るんだろうかと思います。たとえ正解がどんなにはっきりしていても、甘い間違いに惹かれてしまうのが人間じゃなかろうか。けれど、その愉しみは、それがもたらした結果も笑って受け止められる人間でなければ、享受してはいけないのだと思います。大人の小説だと思いました。

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