大森望編「ここがウィネトカなら、きみはジュディ(時間SF傑作選)」(早川書房)



 実はこれまでわりと苦手意識があった海外SFですが、同じようなアンソロジイ「時の娘 ロマンティック時間SF傑作選」が面白かったので、これも手に取って見ることにしました。短篇アンソロジイが好きというのもあるのですが、これはやはりタイトルが秀逸。パッと見では意味がつかみにくいですが、まあ云ってしまえば「ここが名古屋なら、きみは柊生」みたいなものです、はい。時間をテーマにしたSF短編、13篇が収録されています。以下、収録作から、いくつかご紹介。
「商人と錬金術師の門」(テッド・チャン)
 アラビアンナイトに似た形式で語られる、時間を行き来できる門にまつわるいくつかの人生の物語。アラビア風味の世界が舞台なので、とっつきにくくなければいいなと思って読み始めたのですが、思いのほか読みやすかったです。また、過去を変えることはできなくとも、その意味を自分のなかでより深く噛みしめ、和解することが出来るというテーマが静かに響いて、美しい作品でした。そして、実際には、時の門がなかったとしても、この世界と時代に縛られたままでも、過去を自分なりに解釈しなおすことは出来るのでは不可能ではないとも思いました。事実は変わらない、けれど、真実はいかようにもその姿を変える、はずです。
「彼らの生涯の最愛の時」(イアン・ワトスン&ロベルト・クリア)
 時代を変えて何度も出会い直し、運命を変えようとする恋人たち…というのは、時間SFのなかでは、ある意味定番のストーリーなのではと思うのですが、これはなかなかとんでもない。無茶で軽く飛んでいて、けれど、芯にあるものは意外な純情であるようなので、はっちゃけた小道具が気にならない。ふざけすぎという印象はないのです。しかし、タイムトラベルのために時代に左右されない場所として選定されたのがあそことは。確かに下手な文化施設よりも、この世でいちばん見つかりやすく、異邦人が溶け込める場所なのかもしれないな。
「去りにし日々の光」(ボブ・ショウ)
 光が通りぬけるのに大変な時間がかかるため、過去の光景をその向こうに見ることが出来る素材、スローガラス。その産地を訪れた疲れ切った夫婦が出会った、ガラス職人の見つめる先にあったものは…。最後がちょっと感傷的にすぎるかもしれないけれど、スローガラスという発想自体がそういうものなので、似合いなのでは。SFというよりは、わたしの好きな奇妙な味寄りのお話と感じました。
「時の鳥」(ジョージ・アレック・エフィンジャー)
 タイムトラベルとヨーロッパ旅行をはかりにかけて、タイムトラベルを選べるようになった時代。歴史観光旅行の舞台として、アレクサンドリア図書館を選んだ青年が目にした、思いもよらぬ光景とは…。観光旅行のひとつとしてのタイムトラベルにまつわるもろもろの小道具や手続きがリアルで楽しいなと思って読んでいたのですが、その予想を裏切らなさもまた、このお話の皮肉な結論につながるものなのかもしれません。ちょっと意地悪だけど、ラストに納得いく作品です。
「世界の終わりを見にいったとき」(ロバート・シルヴァーバーグ)
 これも観光旅行としてのタイムトラベルを扱いながら、行先は「世界の終り」としての未来。はっきりと指し示されるわけではありませんが、読み手にじわっと伝わる皮肉でブラックなユーモアが、懐かしい感じの作品でした。80年代の日本SFにも似た味わいです。
「昨日は月曜日だった」(シオドア・スタージョン)
 月曜の夜に眠ったハリーは、水曜の朝に目を覚ます。いったいなにが起こったのか?基本設定自体は思いつく人がいるかもしれないし、よくある物の見方といえるかもしれないけれど、これをここまで発展させて理屈づけ、なおかつ登場する人物たちがお茶目で楽しい作品は無いかも。発想と、展開の勝利です。最初はきょとんとするかもしれないけれど、そういうものだと飲み込んで、二度読み直してみれば、面白さに目を開かれる思いがあるでしょう。
「旅人の憩い」(デイヴィッド・I・マッスン)
 場所によって時間の流れる速さが違うという設定を、架空世界の戦時下にあてはめてみれば、なんとも凄みのある、救いようのない作品になりました。この世界への昏いまなざしもまた、SFには必要な視点のひとつとして存在するものだとわたしは思います。タイトルが、なんとも。
「いまひとたびの」(H・ビーム・パイパー)
 過去の自分に戻って人生をやり直す、という設定は、すでにそれだけでオリジナルジャンルではないくらいに定着したものですが、これもまたそのひとつ。わたしはこの手の作品では、筒井康隆の「秒読み」が大好きなのですが、この作品もまた、もう一度やり直すことにより、世界を変えることとその可能性についての前向きな希望がほのかに漂う、読後感の良い作品です。
「12:01PM」(リチャード・A・ルポフ)
 一日の同じ時間が永遠に繰り返され、そのなかにひとり佇みながらそれを何十回でも体験し続ける男。なんとかそのパターンを破ろうともがく男の真剣さと、たちはだかる運命の両方に、重く哀しいものを感じます。これって設定を微妙に変えれば、ある種の幽霊譚にだってなりそうです。つまり、それくらいにひとつの時間、場所に囚われた人間の運命はものぐるしいということ。
「ここがウィネトカなら、君はジュディ」(F・M・バズビイ)
 ここでは時間が繰り返されることも、止まってしまうことも、閉じ込められることもなく、過去と未来を自由に行き来するわけでもない。人生の様々な時期を、滅茶苦茶な順番で生きていく運命にある二人の男女のロマンスを、不思議な発想と展開で描いた作品。ロマンティックで、せつなくて、どこか不思議。最後のセンテンスを読んだ時の充足感は、これがその自由さを許してもらったジャンルであるからこそのものであると感じました。様々なものに縛られず、様々なものを内包する自由さ。(そして時には、縛られること、一つのものに固執することができる自由さも含めて)多分、それがわたしにとってのSFです。読んだあとに、微妙に世界が変わるような不思議な居心地の悪さを感じさせられるという意味で、良いSFを読んだという印象がしました。最初はややとっつきにくいかもしれませんが、構造が分かれば、すごく面白いはず、おすすめです。
 すべての作品が、時間SFと区切りつつも、さまざまな趣があります。それで分かったのは、やっぱりわたしはハードSFとか科学的理屈にはまったく感性が鈍くて、ある種の特殊状況におかれた人々の感情とか心の動きとか、思いもよらぬ行動などがメインでないと反応できないんだなということ。しかしそう思えば、時間SFは、まさに、「終わってしまった過去」「これからの未来」をどうにかしたい、或いはそれに振り回され続けている人々のお話なので、思いのほかわたし好みのジャンルであるかもしれないのです。もうちょっと色々と読んでみようと思います。

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