「ここだけの女の話」田辺聖子(新潮文庫)


  「言い寄る」(感想はこちら)で開眼して以来、田辺聖子の短編集や長編を、新装版になったものをちまちま順番に読んでいます。で、なかにはTwitterで短い感想を呟いているのもあるのですが、なかなか感想を書きにくいものもあったりします。駄作とかつまらないものはまったくといっていいほどないのですが、時代性だけはどうしようもないのかなと思うことが多いかな。「甘い関係」なんて、冒頭の中年男性のすごいセクハラ攻撃に目を白黒させてたら、それがヒロインと重要な関わりを持つ男だったりして、いやもうお手上げ。性格付けと云われたらそれまでなんですが、あれはないわ。

 そう思うと、世の人権意識というのは常に向上していったのですねと真面目に感心しました。いや本当にありえないから。いまでもそういうことするひとはそりゃいるかもしれないけれど、そういう言動が読者に受け入れられるものとして、登場人物の愛すべき無邪気さの表現として、描かれることって、いまの現代小説ではありえないと思う。読者の共感を得るためのハードルを無駄に高くするから。

 しかし、ところどころにそういう意味での「古さ」を感じることがありつつも、けれどもそれでも、そこに浮かび上がる人間の本質、みたいなものは古びていないのです。だからこそ、出版当時から40年近くたったいまでも、普通に読める「小説」として、田辺聖子の小説は、新装版が出版されるのだと思います。あと、もちろん、時代性に関していえば、当時は先端すぎたかもしれない、男性との関係を楽しみながらも、仕事をして、恋の旨味だけを上手に啜るような、若くも美しくもない女性たち、いまでは当たり前に受け入れられているそういう存在を、きちんと描写していることも、さきほどとは正反対の意味で、時代性を感じることであります。あ、当時はこれが夢物語だったのかもね、と。まあ、そういったことは、田辺聖子ほどのひとになれば、多くのかたが感じておられることだろうから、わたしなどが改めて述べることでもないわなあと思ったのも、あまり感想を書かなかったひとつの理由でもあります。

 でもね、田辺聖子の短編を読むたび、ときどき出くわすある種のお話やキャラクターに、わたしはちょっと穏やかなものでないものを感じていました。その穏やかでないものを、作者はどこまで意識されていたのだろうと思うような、人間の、奥底が透けて見えるようなお話があるのです。でも、そう感じるのはわたしだけかもしれない。なにも構えずに読めば、普通に「ああこういうことあるよってに」的に流せるお話かもしれない。

 そもそも、田辺聖子の小説に出てくる人物は、そうそう悪人はいない。底意地が悪かったり、人間的に浅ましい感じのひとはいても、「まあしゃあないな」的に思えるように描写されている。だって、世の中にはいくらでもいるからね、そういうひと。でも、そこに悪意が無いからこそ、疑問を持たないからこそ、浮かびあがる、ぞっとするような人間の空っぽさというのを感じる短編があるのです。それが、この短編集の表題作でもある「ここだけの女の話」。

 団地に住む専業主婦が主人公です。彼女は、自分と同じような団地の奥さんと、他の奥さんの噂話に花を咲かせます。誰それは二号さんだ、誰それの子どもは出来が…と無邪気に詮索をしながら、他人と比べて、自分の恵まれた境遇に密かに満足しながら、さっきまで悪口を言っていた奥さんともそこは仲良く買い物に行き、平凡な日常を、そこそこ楽しく生きています。そういうお話。これが発表されたのはいまからちょうど40年前。日本が高度経済成長期の中にあり、これまでの長屋とはまた違った集合住宅に人が住みはじめたころ。

 発表当時は、おそらく「あるある、こんなこと。いてるわあ、こんなひと」的にさらっと読み流されて、ちょっとユーモアを感じて終わるような話、だったのかもしれません。けれど、いま、40年後の視点で見ると、そのプライバシーの無さと他人の生活を嗅ぎまわることへの遠慮のなさ、妬みとやっかみからくるひそかな悪意(芸能ジャーナリズム、ワイドショー的な騒ぎが始まりだしたころかなあとも思います)に、それこそ、他の作品の男性人物のあまりに時代的に受け入れられないセクハラ発言に引いたのと同じような、受け入れられなさを感じるのですが、わたしがこの作品にぞっとしたのは、それだけが原因ではありません。主人公の心情が垣間見える、あるつぶやきに、ぞくっとしたのです。

 新婚ほやほやの奥さんを見て、主人公はいつまでもそんな甘い思いは続かない、と皮肉な気持ちになったあげく、ある考えを心でつぶやきます。

いやといったって所詮、人間は変わるのだ、白リボンもピンクのセーターも今いずこ、私、ふいっと考えた。人生って何やろ、人間て、何のために生きとんねんやろ。夫婦て、何のために一緒に居るんやろ

 …このつぶやきから伝わる、他人の生活、人格、風評を、悪気も憎しみもなく、ただなんとなく知りたいだけで嗅ぎまわって噂して、我が身と比べて満足して生きている、主人公の、この空っぽさの恐ろしさは、なんでしょう。その一瞬の洞察は、もちろん実を結ぶことはなく、そのまま、特に何もないままでも生きてていいやないのん的に話は終わるのですが、これは実に怖かった。からっぽな人間に、それでも浮かんだ本質的な疑問。それこそが、本人になにもないことを浮かび上がらせているような気がして。そうやって、大事なことに思いを馳せることはないまま、終わっていく人生があるのだ、と云う、当たり前の、でも、どうにも怖ろしいような気がしてならないお話だと、わたしは思いました。なんて怖い。

 もちろん、これはわたしの単なる深読みでしかない可能性が大です。この話は、タイトル通り、女同士の「ここだけの話」という枕詞を象徴にした、他人をどこまでも気にしないと生きていけない団地のおばちゃんをユーモラスに描いただけの話なのかもしれません。でも、わたしは怖かった。田辺聖子の他の作品に出てくる女主人公は、若さや才能、美貌に頼ることはなく、この主人公の問いに自分なりの答えを持っているひとがほとんどだからこそ。そして、この時代には、この主人公のからっぽさは、まったく気づかれないものであったことを思うと、なお。作者だけは、そのことに気が付いていたのではないかと思うのです。

 この短編集には、他にも、亡き夫の弟とのあいだでたゆたうように揺れる気持ちを楽しむ未亡人を描いた「旅行者はみな駅へ行く」や、かしこくあろうとした女と無邪気に大きな視点を持とうとした男、そのどちらにも罪は無く、ただすれ違ってしまった恋の行き先が哀しい「火気厳禁」、2人の男の間で曖昧に揺れ動く女性の迷いを甘く描く「帽子と求婚」、可愛くもかしこくもない幼女の視点から大人の世界を垣間見た「ろばと夢のなかの海」などがとくに良かったです。人間は、どんなことにも慣れてしまったり、いいかげんに生きてしまうものだけど、そのなかでもなんとか自分というものを持って生きていきたいと願ったりするものだなと思います。それはときに泥臭かったり、ダサく思われることかもしれないけれど、それもまた、人間の営みであることには変わりない。それを的確に嫌みなく拾い上げてくれる田辺聖子の小説を、まだ読んでいきたいと思います。

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