「大島弓子にあこがれて?お茶をのんで、散歩をして、修羅場をこえて、猫とくらす」福田里香・藤本由香里・やまだないと(ブックマン社)



 三人の識者による大島弓子論、インタビューなどの大島弓子のついての語りを中心に、過去の大島弓子のカラーイラストや、単行本には収録されることのない予告カット、小さなコラムなどを収録したもの。大島弓子ファンならば、後者だけでも買う価値はあります。
 大島弓子について語るというと、まずは「バナナブレッドのプディング」や「綿の国星」などの70年代か80年代の作品についての分析が中心になることが多いと思います。それはまず、大島弓子の作品がジェンダー、少女、マンガ構造などの様々な面からしてとてつもなく優れていたり、面白い切り口であるから当然なのですが。余談になりますが、そういう観点から書かれた評論で、まさしくこれ以上は無くこれ以外のものはいらない、と未だにわたしが信じてならないのが、橋本治「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」です。大島弓子論以外にも、山岸凉子論、萩尾望都論も素晴らしいので、このあたりの女性作家に興味が合って未読の方にはお勧め。マンガ評論を読んで泣いたのはこれが初めてでした。


 
 この本は、これまでに評価されてきたそういう点も無視すること無く、しかしそれだけではない内容なのが面白かったし、興味深く読めました。とりわけ、80年代以降の、吉祥寺のマンションで猫と暮らすひとりの女性としての自分を描いた一連のエッセイマンガ(「サバシリーズ」)を評価しているのが面白かった。そう、猫を飼って美味しそうな食品を買い込んで、散歩をして掃除をして、仕事もする。友人は存在するけれど家族や恋人は登場しない。そういう世界がとても素敵で、憧れた時代が自分にもあった、とそれを読んでいた20代の自分を思い出しました。もっとも、それ以後のサバが亡くなり、典型的な「猫おばさん」になってしまった大島弓子の生活には、正直言って憧れの感情よりも大丈夫かなというようなもやもやした気持ちを抱くようになってしまったのですが…それも人生、なのかもしれないけれど。
 そんな風に、大島弓子の作品に惹かれてきた人ならば、この本を読むと自然と「自分と大島弓子」の関係に想いを馳せてしまうと思います。この本の中にもあったように、大島弓子という作家は、そのメジャーさにも関わらず、ファンとなった人間に「私だけの大島弓子」と思わせてしまう作家さんなのです。この本は、まさにタイトル通り、そういうかたちで大島弓子を愛してきたひとによる本なので、ここには「私だけの大島弓子」が溢れています。よって、読む人によっては、ここにあるファンならではの熱い言葉についても、いちいち、違うんじゃないの?ううん、それ、わたしの場合は…みたいな感情を呼び起こされてしまうのではないでしょうか。でも、わたしはそれがこの本の読み方として間違っているとは思いません。
 読み手の数だけ、大島弓子の姿は存在する。そういう意味でも希有な作家なんだと再認識させられました。大島弓子ファンには間違いなくおすすめ。

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