「死にたくなったら電話して」李龍徳(河出書房新社)



 居酒屋でバイトしながら有名大学を目指して三浪中の徳山という若者が、ある日、バイト仲間に連れられて入ったキャバクラで、初美というひとりの嬢に出会う。ナンバーワンにふさわしい美しさをもった彼女は、徳山を見たとたん、なぜか哄笑の発作に襲われる。その奇妙な態度に苛つき、戸惑う徳山だったが、彼女はそのまま徳山の生活に入り込んでいく…。
 他人よりはいくぶんマシな容貌をもちつつも、それ以外はとりたてて秀でた部分もなく、ぐつぐつと鬱屈した内心を持て余しているような男である徳山と、若くて美しく、それを利用して水商売で高給を稼ぎつつも、その中身が底無しの虚無であるような初美。ひとつ、またひとつと彼女以外との人間との関係を削り取られていく徳山と、徳山と出会ったからこそ、己の先行きを定めて一心不乱にその方向に進んでいく初美。なのに、これはけして恋物語ではない。愛の物語ではない。むしろ、もっと切実で、深くて、絡みあって癒着しあったいびつな双子のようなふたりの物語です。溶けあった二人の肌は、血管ごと繋がってどろどろに腐った肉のかたまりのようになって、けして切り離せない。
 いや参りました。読んでいるあいだずっと「いい、いい」とつぶやき続ける自分の気持ち悪さに自分でヒきながらも、ラストまで中断することなく読み続けました。文学の世界には、こういう物語が、不意に現れます。壮絶な、愛と片付けてしまうには、それだけでは足りないような、もっともっと苦しい結びつき、地獄の中の極楽、蜜の中で溺れ死ぬような二人の物語が。
 とにかく、濃い物語なので、好き嫌いは分かれると思います。駄目なひとは、二人が最初に結ばれたあと、初美の書棚に並べられた拷問史や残虐史を初美が語りながら徳山が性的に興奮していく場面でアウトでしょうし、それがいけるひとはそこらへんから、この二人がどのような運命に突き進んでいくのかに目が離せなくなっていくと思います。そして、最初はそういうアブノーマルな性癖をもつ二人の「出会ってしまった」物語のように思えます。けれど、二人の関係が徐々に深まり、初美が徳山の言動に隠せない影響力を及ぼすようになってからがこの本の本領です。
 舞台を大阪の十三というごく狭い地域にしていることがまた良かったと思います。関西人の笑い、ボケツッコミという自然のフィルターに隠された男同士のマウンティングの無様さと残酷さが真っ向から取りあげられているからです。マウンティング女子、なんて言葉もありましたが、それは性差に関係なく存在することが良く分かります。そして、その、あまりに普遍的に存在している凡庸な関係性に、普通でない二人が向かいあう時に何が起こったのか。
 二人の結びつきが堅硬になっていくに従って、二人が相対しているのはそれぞれひとりの人間というよりは、むしろより深い、人間の皮一枚の下にある水分たっぷりの内臓と体液と血液を湛えた存在であることの醜さ、狡さ、どうしようもなさであるように思えます。そして、初美の美しい瞳には、そんな人間の底が透けて見えるようなのです。けして云ってはいけないことをぶちまけるのは、生理的な嘔吐にとても似ています。嘔吐がそうであるように、その行為はとても汚く、醜く、鼻につくけれども、それが与える爽快感はほかのどんな行為でも取って変わることが出来ないものなのです。その快感は誤魔化せない。
 そう、醜くてずるくてセコくて、残酷な、誰もが持っている人間のそんな部分。初美がそれを掬いあげて掌の上で転がすさまは、素晴らしく、残酷で、怖くて、そして誤魔化しようもなく魅力的です。それを認めなくてはいけない。
 それだけ、初美と、初美の影響を受けた徳山が、こちらを軽く見て威張り散らしたり虚勢を張る人間や、妬みや優越感を隠して親切気取りで己の行動に口を挟む人々を論破して彼らの傷を抉って地べたに投げ捨てるさまをみるのは、はっきりと快感でした。やれ、と思います。そうだよ、云ってやれよ、こいつらみんな醜い、ずるい、どんなに傷つけられても文句言えない最低な奴らだよ。でも。そこでわたしは止まります。でも。わたしは、どちら側の人間だろうか、と。
 この内容が響かない人には、ただどぎつく、露悪的で加虐な描写ばかりが目についてしまう物語なのかもしれません。また、構成の多少のぎこちなさ、謎のままの設定などが気になってしまって内容に集中できないかも。なによりもこの物語が現している「人間を人間たらしめているもの」。それが不快なひと、云われている意味が伝わらないひと、その問いを必要とするように生まれつかなかった人には届かない物語であると思います。
 でも、そうでないひとには届いて欲しい、と思いました。世の中の大多数のひとの、ちょっと良い話、ほっこりする優しい声にイラだつひとには読んでほしい。自らの鬱憤を代弁して綺麗に片づける登場人物の言葉に、最初はすっきりするものの、やがてどこか、もやもやと落ちつかない気分を感じるのでは。少なくともわたしはそうでした。そして、そのもやもやとした気分は、主人公の二人の落ちていくどこまでも深い穴、妥協すること無く出会ってしまったふたりが、必然ともいえる道行きに沈み込んでいくさまを眺めるうちに、なにかもっと深い内省にも似た気持ちに昇華していったのです。
 すぐれた文学は、読み手ひとりひとりに「この物語を理解出来るのは自分だけに違いない」という錯覚を起こさせます。人間はそれぞれ他人であるにもかかわらず、作者を飛び越えてその作品の登場人物を「わたしだ」と思わせるのです。わたし。初美の潔癖さを、徳山の迷いを、形岡の甘えとずるさを、わたしはみな持っている。つまり、目の前に「お前もこうやろ?お前はどうや?」という問いを。突きつけられている気がするのです。ただ本を読んでいただけなのに、己の内臓を泥だらけの手で引きずり出されたような、自らの人生への処し方にまで思いを馳せることを求められたような、そんな文学の力を感じました。
 最終的に、どこまでも透明に軽くなって空気に近くなっていく登場人物を眺めていくと、悲惨かもしれないその流れに、それでも、こういう風に胸を突かれたいからこそ、わたしは本を読むのだと思いました。おすすめです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする