「黒い迷宮: ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」リチャード・ロイド・バリー (ハヤカワ・ノンフィクション)



 真実はあっけなく、単純で、だからこそ、痛ましい。
 恐ろしい犯罪の犠牲者になるということすら、ありふれた不幸の一バージョンにすぎないという無機質な事実。何も考えずにただ、道を歩いていた。けれど、そこには深い落とし穴が空いていて、そこに落ちてしまうと二度と地上には帰ってこれない。彼女は穴に落ちてしまったのだ。
 その場。その時。そこに現れたこと。様々な偶然と成り行きで、人生に不意にその穴は現れる。なんて怖いことだろう。わたしはそんな事実に身がすくむような思いになる。
 もちろん、いくらでも反論は思いつく。「そもそもその道を歩かなければ良かった」「注意深く足元を見ておくべきだった」「もしものための命綱を身につけておくべきだった」「落ちた瞬間に助けを求めて叫ばなかった」そんな当たり前の、誰でも普通に思い浮かべるような警告も、日常の自分自身の生活の無意識な言動を振り返れば、それが何の意味も持たない羽音のようなものとして通り過ぎていってしまうことに気持ちはざわめく。そして大事なのは、これらの言葉は、いざ、ことが起こった後には、なんの力も持たないということ。何と残酷な真実。穴に落ちたあとでは、誰も彼女を救うことはできなかった。
 この本は、2000年の7月に、東京の六本木でホステスとして働いていたイギリス人女性が、突然行方知れずとなり、その後遺体となって発見された事件について、イギリスの新聞「タイムズ」の東京支局長である著者による関係者への10年越しの取材の結果、その真相に迫るノンフィクションです。
 まずは、犠牲者となった女性の人生をたどることから始まります。彼女は、両親に愛されたブロンドのイギリス人の美少女。勉強はそんなに熱心ではないけれど、学校にはお友達がいる。ちょっとカードで買い物しすぎることはあるけれど、浪費家というほどではない。恋をすれば一途で、家族にも思いやりを忘れない。美人であるけれど、自分の容貌にコンプレックスも感じている。そんな、日本人であるわたしにも共感できて、そのひととなりが理解出来る、まさに隣の女の子という印象を受けました。
 そんな彼女が、借金を清算する為の新しい働き口として日本にやってきます。彼女の目を通して語られる東京。そこで丁寧に解説される日本の文化は、日本に住む私の目から見ても違和感は無い正しい描写だけど、同時に不思議な世界にも映ります。それは奇妙な感覚でした。確かに、その通り。偏見や誇張はなく説明されているのに、どうしてこの国のこの文化は、どこか不思議で奇妙なものなんだろう、と。わたしはこれまでにも何冊かの外国人による日本文化体験記を読んできましたが、この奇妙さを味わったのは初めてでした。持ち上げもせず、けなすこともない、評価するのではない、あくまでフラットな視点から見た、この不思議な国。不思議な街。不思議な人々。
 それはおそらく、この本を書いたジャーナリスト、リチャード・ロイド・バリーの視点から来る感覚です。その公平な視線は、彼女の死の真相に迫っていくなか、警察の対応、彼女を取り巻く人々、家族の動揺などのいくらでも情緒的に読み手を煽ることが可能な場面でも、常に一定の温度を保ち続け、変わりありません。しかし、冷たくはないのです。登場する様々な種類の人々には日本人もいればイギリス人もおり、お堅い職業の人もいれば犯罪者もいる。怒っている人も哀しんでいる人も諦めているひともいる。そんなかれらそれぞれの人間性がしっかりと伝わってくる描写でありながらも、かれらを一面的に断罪することはありません。かれらの人間としての善悪を著者が判断していない。だからこそ、やがてこの本の中でゆっくりと姿を現してくる、彼女を殺した犯人の、おぞましさとつかみどころのない悪の正体が明らかになったときでも、わたしはこの本を冷静に読めたのだと思います。これみよがしの煽情的な内容にすることも可能だったこの話を、あくまで冷静に語った文章のおかげです。
 しかし、肝心なのは、だからといってこの犯人のこれまでの所業のおぞましさが薄まっているわけではないということ。むしろ、余計な断罪や先入観が抜きになっていることで、この事件の本質が際立ち、その凄惨さがはっきりしたことになると思います。同じことが、この事件の舞台となった日本という場所についても言えるような気がします。日本という国の、不思議さ。
 あくまで中立で裁かない視点を持つ著者が唯一批判するのは、それ以前にも犯罪の訴えはなされていたのに真剣に取り上げることが無かったという警察の対応ですが、同時に個々の警察官の優秀さと仕事熱心さにも触れ、単純な悪者探しにはなっていません。あくまでシステムの問題であるという指摘には、頷けるものがあります。また、白人女性が日本人男性の犠牲となったという事実から連想されがちな、日本人男性の性的嗜好に問題があるとする考えや、忌まわしい成年マンガの影響であるという考えは明確に否定しています。著者は繰り返し、そんなに単純に片づけられる問題ではない、人間性とはそんなに簡単に割り切れるものではない。これはまぎれもなく人間が引き起こした事件なのだから、と言っているようにわたしには思えました。
 この本を読みながら、わたしは、未だに犯人が捕まっていないいくつもの女性が殺された性犯罪と思しき事件を思い出しました。そこには、いまもこの日本で暮らしている何人かも知れない犯人の存在があります。声を出せない被害者を思い、そのひとたちを取り巻く家族や友人たちの抱える心の傷の深さを思います。それらの人々とわたしには何の違いも無いのです、きっと。ただ、その人たちの前に事件は訪れたということ。彼女がそうであったように。
 
 凄惨かつ残酷な事件であり、なおかつ被害者が美しい外国人女性であるということなどから当時のマスコミにはセンセーショナルに取り上げられましたし、ある意味で特殊な事件であることには間違いはありません。ですが、同時に、人が殺されるということ(忘れてもらいたくないのは、性犯罪は“魂の殺人”とも呼ばれるほど被害者を傷つけるということです。この事件の犯人は、逮捕されるまでに何十年もそれを続けてきたのです)の悲劇を丹念に追った内容です。恐ろしいことに、犯人と同じ種類の欲望を抱えた人間は、この世界に何人もいる。それを思うと、足元から崩れていくような不安感が浮かびます。ですが、それでも生きていくことを人間は選ぶことが出来るということも伝わってきます。被害者と加害者。かれらを取り巻く人々。どこにも単純な勧善懲悪で片付けられる要素はありません。
 冷静に語られた文章によって事実が積み上げられ、少しずつ事件の真相が明らかになっていく展開は、上質のミステリにも負けないリーダビリティを備えているし、同時に、優れた日本文化論にもなっていると思います。痛ましい事件を扱ってはいますが、陰惨なだけの内容ではありません。人間という存在の深さ、人間性の複雑さに思いをはせる為に、こういう本を読むことは意味があると思います。読んで良かったと思いました。

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