わたしの好きな橋本治というひとについて。

 橋本治が亡くなった。70歳、肺炎だった。

 体調を崩していたことは近著で知っていた。なんだか最近、元気がないなあ……とも思っていた。でも、訃報が届いたときには「まさか」と思った。70歳という年齢に、「そんなに若かったのに、もう」と思った。だって、一時に比べればスピードは遅くなったけれど、つい最近まで本を出していた。連載もしていた。新刊の予告もあった。どうして、と思って、一気に心もとなくなった。

 有名人が亡くなって、ショックを受けることはよくある。子供のころ、亡くなる有名人は知らない人ばかりだった。テレビで見たことがある人、知っている人が亡くなって、いちばん最初に驚いたひとは誰だっただろう。それが、だんだん、親世代の有名人が亡くなり、自分が知っている有名人が亡くなるようになる。死ぬ理由は寿命とは限らないから、まだそんな年齢じゃないでしょうと思う人もいなくなってしまう。自分も読者だった作家で、亡くなったことをリアルタイムで知り、強いショックを受けたのは、いますぐに思い出せるのは中島らもだ。あのひとも早すぎた。でも、無頼な生き方をしているひとで、危ういことは読者であったわたしにも察することができた。

 そしていま、橋本治がいなくなってしまった。

 わたしは、10代のときから橋本治のファンだった。いちばん最初に読んだのは、たぶん「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」だ。

 なぜその存在を知ったのか?たぶん、わたしは少女マンガが好きで、それに関する本を読んでみたかったんだと思う。倉田江美、萩尾望都、大島弓子、山岸凉子らの作品を評論したこの本に関しては、さまざまなひとが感想を述べている。今回の訃報でも、この本に触れる人はとても多かった。なぜこの本がそんなに特別なのか?と問われたら、だって、と10代のときのわたしが言う。だって、この本は、わたしに、ここにいていいと言ってくれたのだもの。評論本にそんなことを言うのはおかしな話かもしれない。でも、橋本治は「少女」マンガの構造を分析し、解説することによって、「少女」そのものを肯定してくれたのだと思う。もちろん、それはだれかによって肯定されたり否定されたりするようなものではないと思う。「少女」なんてただの概念、目の前にいるひとりひとりの生身の人間を無視して語られるようなものではないはずだ。けど。橋本治の文章は、ときに格調高く、ときにふざけ散らして、親しみやすく、まさに少女であったわたしに「肯定」をくれたのだ。わたしはそれがすごく、嬉しかった。

 橋本治の活動はあまりに広く、わたしなどがつかみきれるものではないし、わたしもそのすべてを読んでいない。でも、10代のときからずっとわたしにかたわらに橋本治の本はあったし、かれが亡くなったならば、読者としてできることはもういちどかれの本を読むことだと思う。復刊や再刊、再編集の本はこれからも出るだろうし、いまだ単行本化されていない本が新刊で出ることもあるだろう。でも、純粋な意味での新刊はもう出ないのだ。ならば、再読のついでに、自分の好きな橋本治の本について書きたいと思った。それがこの文章です。

 そういえば、その死が報じられた際は、代表作は「桃尻娘」と言われた。長年の読者にとっては「まあ分からないでもないけど、それだけじゃないよね」という気分になったひとも多いんじゃなかろうか。わたしとしても、決して嫌いじゃないんだけど、今回のことがきっかけで橋本治を読もうと思った人がいきなり「桃尻娘」を手に取ったら、ちょっと戸惑うんじゃないかと思う。時代性がキツいのでは。あと、橋本治を苦手な人はあの文体が苦手ということが多い気がするのだけど、まさにそれが全開なので。

 そもそも「桃尻娘」自体は、全6冊の大河小説の第1巻でもある。ぶっちゃけ、わたしが「桃尻娘」シリーズに手を出したのは、その手のことに敏感だった年頃に「普通に本屋さんで売ってる小説で、男の子同士の恋愛が描かれてる!」ことにあった。ええ、それは昔、JUNEはようやく存在したものの、一般小説で同性愛が描かれるものといえば三島由紀夫や森茉莉にあたるしかなかった太古の時代のお話のこと。それでまあ読み始めた。そのあたりの期待は裏切られなかったけれど、それはすごく不器用で、リアルで、痛々しかったし、さわやかだった。

 しかしそんな助平心でこのシリーズに手を出したわたしは、やがてこの大河小説の最終巻である「雨の温州蜜柑姫」にたどりつき、そこで描かれているサブヒロインの醒井さんの成長にすごく感動するという結果になったのだった。女の子がを学ぶということ、成長するということをこんな風に書いている本を読んだのは初めてだと思った。わたしも勉強したいとすら感じたのを覚えている。いま読み返すと、もしかしてまったく違う感想を持つかもしれないけれど。

 じゃあ、橋本治の小説はなにから読むのが正しいのかと問われたら、これが困る。なんといってもジャンルが広すぎるし、これがいちばんと決められるようなものではない。なので、ここではわたしがいまこの場で思い出せる好きな本についてざっと触れてみる。

「女賊」

 耽美派には間違いなくこれ(源氏物語好きには、まだ読んでいなかったら「窯変源氏物語」しかない)。江戸川乱歩の「黒蜥蜴」を翻案したものだけど、岡田嘉夫のイラストと合わせて、絵物語になっている。とにかく文章が美しく、物語がせつない。恋とはこんなに恐ろしく、美しいものなのか。明智小五郎と黒蜥蜴のあいだの秘められた恋とやり取りが、黒蜥蜴のひとり語りで描かれ、最後にたどりついたその姿の、美しくはかないこと。

「初夏の色」

 橋本治はいわゆる純文学的な小説も手掛けていた。そのどれもが素晴らしく、評価されていたと思うけれど、わたしはそのなかでもこの一冊がいちばん好き。ここに収められた6篇の短編は、どれもが東北の震災後の世界を舞台にしている。これまでにも震災を扱った作品を何冊か読んだけれど、奇をてらうわけでもなく、ファンタジーに逃げる事もなく、弾劾口調でもなく、ただ、その場に生きている人々の生活を切り取って差し出すようなこの短編集にかなうものは無かった。本当に、普通の、ただの人が生きている。そしてそんな人たちが生活する光景をこういうかたちで取り出せる力はすごいと思った。

「橋」

 昭和からバブル崩壊後の世界へと進んでいく日本を舞台に、ふたりの女性が生きている。まったく前情報なしに読み始めたので、彼女たちの運命がたどり着く場所に気づいたときには声が出た。時代の流れはまさに川で、そこに架けられている橋を歩く人間は、その川の流れにどれだけ無力か。それはほんとうに、リアルで、絶望的で、たまらなく怖いと思った。

「夜」

 5つの短編が収められた短編集。どれもがある意味で壊れた関係と規範のなかで、表面上は淡々と生きようとしつつも、生きていくことにゆるやかに失敗していく人々を描いている。どれもが、橋本治ならではの端正な文体と揺らがない観点(視点ではない)に支えられ、こくのある作品となっている。とにかく文章が実に美しく、なんというか、含みがある。そして、これはもう信者のたわごとと云われても仕方がないのだけど、橋本治は常に正しい。あまりにも、本当のことを書く。それがどんなに救いの無い世界であっても。同性愛者の男性が自分の愛した異性愛者の男性に、拒絶されながらも愛されて、利用される「暁闇」がベスト。

 しかしそもそも、橋本治といえば評論、エッセイだと言う人は多いと思う。わたしもかれの時事評論にもすごく影響を受けた。リアルタイムで読んでいた「ああでもなく、こうでもなく」には、いつも世の中の正解を教えてもらっている、そんな気さえしていた。しかしその膨大な中で選ぶとなると、わたしの中に真っ先に浮かんだのはこの二冊だった。

「虹のオルゴオル」

 オードリー・ヘップバーン、マリリン・モンロー、イングリッド・バーグマン、ヴィヴィアン・リーといったハリウッド黄金時代の女優たちについて、彼女たちの魅力を分析したこの一冊は、すぐれた女性論でもあると思う。それぞれの代表作を通じて、そこに描かれる女性像を解説するそのお喋りは、まだ10代だったわたしに、なんというか大人の女性になるということについてあれこれと考えさせてくれた本だった。なにより、この橋本治はとてもやさしい。あなたが美しかろうとそうでなかろうと、恋をしていようといなかろうと、男がいてもいなくても、胸張って人生楽しむことはできるはずといわれた気がしたのを覚えている。

「恋の花詞集ー歌謡曲が輝いていた時」

 明治33年「青葉茂れる」から昭和40年「霧深きエルベのほとり」まで、それぞれの時代で流行した歌謡曲を分析し語った本。どの一文にも、その曲への思い入れと愛情が詰まっていて、とても美しく楽しい本。「影を慕いて」を「どうしてあなたは人の想いに気がつけないのだ?それを受け入れることができないのだ」と、「君」なる男性に訴えかける、大きな絶望の歌だと解釈し、「蘇州夜曲」を「恋というものは美しい、そしてその美しい恋を可能にする場所はもっともっと美しい」という「旅の歌」だという。その観点は、どれも楽しく発見に満ちている。大好きな一冊。

 ちなみに、橋本治の過去の著書には、現代の目からみると、ポリコレ的に乱暴な表現も多々ある。わたしはかれの人生相談本「青空人生相談所」とか大好きだったけど、今回、何十年ぶりかに読み直して、素晴らしいところは素晴らしいまま、さすがにいまはこれは駄目だろうと思うような個所もいくつもあった。なんといっても、70年代から書いているひとなので、その時代では問題なかった表現が、いまではちょっと……となるのもしかたないかもしれない(女性に対する手厳しさと口汚さはいま読んだら引く。けれど、その厳しさは遠慮なく男性にも向けられているので……)。なので、すべてがOKとはいかないと思うのだけど、それでも橋本治の本質はそういったところにはないと思うのだ。

 わたしは、橋本治の人間に対する厳しいまなざしと共存するやさしさがとても好きだった。まるでおしゃべり好きの物知りなおじさんの語りを飽きずに聞き続けているようなかれのエッセイや評論をとても面白く読んだけれど、なかにはいったいなにを書いているのかよく分からない本もあった。だから、かれの活動範囲はとても広くて、大きくて、わたしなどはそのごく一部に触れただけにすぎないのだろうと思っている。今回、こうやってかれの著書を本棚から出してきても、まだまだ足りない、あのこともこのことも語ってないという気分でいる。でも、たとえ喉が枯れるまで語っても、その足りなさが埋められることはないとも思う。

 それくらい、橋本治は大きなひとだった。わたしがかれの本から受け取ったものはなんだったのかと考えてみれば、それはひとことで言い表せるようなものではなく、10代と20代という不安定な時期に、自分を支えてくれた大事なひとという思いしかない。そして、そのあともわたしはかれの本を読んだし、これからも読むだろう。再読し、途中で挫折したものにもういちどチャレンジし、新刊を待つ。いっそ全集で出てくれないかとすら思うけれど、果たして何冊になるのだろうか?

 つまり、わたしはこれからも橋本治の読者であり続ける。そんな作家に出会えて幸せだと思う。ほんとうに、ありがとうございました。

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