次元大介には、休息が必要だった。
まずひとつ。とんでもない緊張を強いられた、あるマフィアの屋敷への潜入があった。そのマフィアと次元のあいだには、かつて、あまりよろしくない結果とともに終わった関係があったため、次元の存在の発覚はそのまま死を意味すると言っても良かったのだ。
もうひとつ。ルパンが見落としていた金庫の防犯装置が作動したため、すさまじいレーザー攻撃を受けた。なんでマフィアがこんなもの仕込んでるんだ!というルパンの叫び声は、ふたりのスーツに新しく焼け焦げができるたびにくりかえされた。とうぜん、次元のボルサリーノも、無傷とはいえなかった。
さらにひとつ。なんとか逃げ出して車に乗り込んだのはいいものの、そこからの逃走劇がまた派手なものだった。ルパンはこういうときのためにおれの運転技術があるんだといわんばかりの無茶な走りでハイウェイを疾走した。そのため、助手席の次元は乾燥機のなかの洗濯物のごとく扱われたうえ、わずかな隙をみての追手への射撃も要求された。もちろん、そのときもルパンが車のスピードを緩めることなどはありえない。
あとひとつ。ようやく追手をまいて、ルパンが入手したマフィアのお宝が入ったアタッシュケースを開けた瞬間、そこに詰まっていたのがマフィアのドンの孫娘の成長記録だったのを目にしたのが大きかった。ルパンの元にはドンから涙声で記録を返して欲しいという連絡が入っていたようだが、その声の響きも次元のため息を誘った。
まだひとつ。ヤケを起こしたルパンが、これから厄落としでいっちょラスベガスに繰りだしてドンチャン騒ぎだ!と言いだして、それにつきあわされるのを断るのがひと苦労だった。MGMグランドのライオンも、ブラックジャックもバカラもスロットマシンも、いまの次元にはなんの意味もないことだった。最終的には、むくれたルパンが、分かったもういい!とひとりで飛び出していくのを見送った。そんな相棒のタフさを思うと、さらに次元の疲れは倍増した。
さいごにひとつ。ようやくアジトの自分の部屋の前までたどりつき、ふと思い出して取り出した煙草の箱の中身が、空だった。
次元はここにいたって、いまの自分になにが必要かを思い知る。間違いない。次元大介には、休息が必要だ。
しかし、まずは煙草だった。アジトの外に出てみると、早朝の冷えた空気が、疲れた身体にはむしろ心地良く感じられる。24時間のドラッグストアで煙草を買い、なんとなくそのまま中心部の広場の方へ足を向けると、最近、この地域でもはじまったファーマーズマーケットが開いていることに次元は気づいた。近所の農家が自分たちで作った農作物を持ちこんで、自由に売っている催しだ。最近のスローフードとやらの流行で、けっこうなにぎわいとなっている。
オーガニックだの健康志向だのとは、出来れば距離を置きたいと思っている次元のような男にとっては、興味が無いものも多かったが、みずみずしい果実や野菜が並べられている眺め自体は悪いものではなかった。いっそ煙草農家も出店してくれないものか、と次元は思う。
ぶらぶらと市場をひやかして、山盛りの葉つきニンジンと薔薇の花、さらにはパンまで売っていた老婆から、次元はベーグルをひとつ買う。次元が渡した札を老婆が入れた缶が、いかにも雰囲気がある年代物のブリキ製だったのが、なんとなく次元の印象に残った。
テイクアウトのコーヒーも買い、次元は広場に置かれたベンチに腰をかけた。ほんとうはなによりもまず一服したいところだが、公共の場所でそんなことが許される牧歌的な場所は、この世界にあまり残されていないことを次元は知っていた。
コーヒーをすすり、ベーグルをひとかじりしたところで、さっきまで自分がいたファーマーズマーケットのにぎわいから、弾丸のような勢いでひとりの少年が飛び出してきたのを、次元は見る。まだ十歳になるかならないか、というところだ。その手に、ついさきほど自分が老婆に渡した札が入っているブリキ缶が抱えられているのを、次元の目は見逃さなかった。次元はため息をつく。
面倒だ。そしておれは疲れている。
五秒間だけそう思ったあと、次元はかじりかけのベーグルを懐にいれ、立ち上がった。
こういう街には、表通りから一歩外れれば、いくらでも裏道が存在する。しかし広場からより遠ざかり、ごちゃごちゃした下町に向かいたいのなら、最適の道はそう多くない。次元はそれを知っていた。
少年は、自分の前にいきなり現れた、疲れた目をした髭の男の存在にかなり驚いたようだった。
「悪ガキ。それを渡せ」
そのまま次元がマグナムを構えると、少年はヒッと短く声を上げ、缶を差し出した。次元はそれを素早く奪い取る。そしてあわてて逃げようとする少年の襟首をつかみ、マグナムを使った。といっても、使ったのは引き金ではなく銃身だった。それで頭をきつく小突いたのだ。もちろん弾は入っていない。悲鳴を上げる少年に向かって、次元は言った。
「おまえがあと十歳年をとってりゃ弾を使われても文句は言えねえんだ。これにこりたら、ばあさんのブリキ缶なんか狙うんじゃない。狙うんならマフィアの金庫でも狙え」
次元が手を離すと、少年はそのまま振り向きもせず走って逃げた。
まあ、そのなかにあるのは五歳のアナベラちゃんの成長記録だったりするけどな、と次元はため息をついた。
そして次元はファーマーズマーケットに戻り、さきほどの老婆にブリキ缶を差し出した。走ってきた少年が落としたんだという次元の説明に、老婆は大喜びして、売りものの薔薇の花を次元に一輪差し出した。年寄りの厚意を断るには、いまの次元は疲れすぎている。そのまま薔薇を受け取り、帰路に着いた。
ようやくアジトに戻ると、次元はまず、自分の部屋で煙草を吸った。薔薇の花は適当にテーブルに投げておく。本当は湯にゆっくり浸かりたい気分だったが、それだとそのまま眠って溺れてしまいそうで、軽くシャワーを浴びるだけですませる。グラスに一杯だけバーボンを注ぎ、それを飲みほしてから、ようやくベッドにもぐりこんだ。頭を枕に乗せた瞬間に、次元は眠りに落ちる。
気がつけば、温かく、やわらかい女の感触がした。甘い香りと、耳をくすぐる微笑みをふくんだ声がする。夢を見ているんだな、と醒めかけた意識で次元は思った。次元にとり、女の夢を見るのは、いつもすこしばかり寂しい気分になることを意味していた。夢で逢うのはたいていもうこの世にはいない女たちだ。いまさら恋しいとも逢いたいとも思っていないはずなのに、夢の中の自分は、その女たちが生きていたときと同じ気持ちで幻を抱きしめてしまう。夢なので、相手はいつもひとりとは限らない。だれとも分からず、だれとも決めたくない気持のままで、手を伸ばして触れる。体温のぬくもりに酔って、唇を甘く重ねて味わいながら、それでもぼんやりとあいまいに、その名を呼んだ。
呼んだとたんに、頭が、がつんと揺れるような衝撃が走った。
一気に頭が覚醒する。毛布を払いのけ、枕の下に置いておいたマグナムに手を伸ばそうとしたところで、次元は自分がベッドにひとりでいたわけではないことに気がついた。下着姿の美しい女が、ベッドのなかで、自分をにらみつけている。
「不二子」
それを認めると、次元の身体の緊張が解けた。かたわらにある時計に目をやると、ベッドに入ってからまだ30分も立っていなかった。
「マジか。寝かせろよ」
思わずそう言ったものの、目の前の不二子の表情がひどく冷たく、明らかに怒りの色を現していることに次元は気づいた。次元は自分の顎を押さえる。
「殴ったのはおまえか」
「目が覚めた?なんならバケツの水を頭からかけてあげましょうか?」
「なに怒ってんだ」
敵ではなかったということで、一気に広がった安堵感と、睡眠を強引に中断された気分の悪さの両方で、フラつく頭を押さえながら次元は言う。
「昨日の仕事のことなら、文句はルパンに言ってくれ。荒っぽい仕事だったから、おまえの出番はなかったよ」
しかし、不二子は次元のそんな言葉は耳に入らない様子で、次元の肩をつかみ、そのままシーツの上に押し倒した。次元の胸に覆いかぶさるようにして、近距離でにらみつけてくる。
「まだ、寝ぼけてるの?」
「眠くて仕方ねえ。話は五時間後にしてくれねえか…いてえ」
不二子に耳を思い切り引っ張られ、次元は顔をしかめる。
「ほかの女の名前を呼んだのよ」
「だれが」
「あ・な・た。次元大介。あたしとベッドにいるときに、ほかの女の名前を呼んだ、ぼんくら男があなた」
わずかな間があいた。次元はぼんやりとした声で言う。
「ていうか、おまえだったのか」
「誰だと思ったのよ!」
不二子の権幕に、次元はようやく事態を飲み込む。一気に煙草が欲しくなった。
「悪い」
「思ってないくせに」
不機嫌な様子を隠さない不二子に、次元の謝罪はあっさりと無視されてしまう。
「まあな。そんなことでいちいち怒んな。寝ぼけてたんだよ」
頭がしっかりしているときならば、いろいろなだめる言葉も考えてみるのだが、いまは無理だ。さすがに次元も面倒になり、頭をかいた。
「だいたい、昔の男を集めたらオリンピックがニ回は開けそうな女に言われたかねえ…いてえ」
ふたたび、さきほどよりもいくぶん力が増えた指で、次元の耳が引っ張られる。
「それとこれとは話が別よ」
「分かった。謝る。だから眠らせてくれ」
「適当なこと言ってると、耳元でシンバルを鳴らせ続けるわよ」
この女ならやりかねない、と次元は思う。しかし、いまはどうしようもなく眠かった。胸の上にぴったりと寄り添った不二子の体温の温みも、いまは欲情よりも睡眠の安らぎを誘うものだった。そのまま、不二子の髪に手をやり、その顔をながめると、露骨にむくれた表情が不思議と可愛くみえる。
次元はそのまま、ゆっくりと不二子の唇を味わった。
「…そんなことで許さないんだから」
キスを避けることはなく、それでも念を押すように不二子が言うのに、次元は答えた。
「マジで眠い。他の女の夢なんかもう一生見ないと約束しようか」
「できるわけないじゃない」
あきれたような不二子の声に、次元はうなずく。
「だろ?だから要求すんな。出来ないことは約束したくない」
そう言って、次元は不二子を抱きしめる。議論も耳を引っ張られるのも、もう勘弁してほしかった。かといって、いいかげんな約束もしたくはなかった。ただ不二子の髪に顔をうずめ、甘い香りと柔らかな肌の感触を味わっていると、自分がそのままゆっくりと、ふたたび眠りの地平へと誘われていくのが分かった。夢に落ちそうな感覚のまま、次元はささやく。
「でも、いま、おれが抱いているのは不二子なんだから、いまはほかの女のことなんか一瞬も浮かんでないってことは約束できる」
「…あたしのことだけ?」
「ああ」
次元が覚えているのは、そこまでだった。
やがて、ブラインド越しに夕日が顔にあたって、次元は目を覚ます。夕方まで眠ってしまったらしい。ふとテーブルに目をやると、そこに置きっぱなしにしていた薔薇が消えていた。女泥棒らしい盗みだな、と次元は思う。
自分の休息は終わった。さて、つぎになにをするべきか。とりあえず、次元は煙草に手を伸ばした。
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