「ルパンはまだ来ないの?」
それが、次元大介の耳に飛び込んできた、峰不二子の最初の言葉だった。ノックも無しで、ドアを蹴破るようにして入ってきた不二子は、そのまま次元の寝ているソファを蹴って、そう言ったのだ。ばかでかいハーレーの音が表に響いた時から、嫌な予感はしていたが……と、いささかうんざりして、ソファに寝転んだまま起き上がりもしなかった次元は、不二子の言葉に無愛想に答えた。
「今回の仕事におまえさんも噛んでるとは、あいつは言ってなかったけどな」
「こーんな森の中のお屋敷、よく見つけたわよね。隠れ家にはもってこいだけど、駆けつけるほうの身にもなってほしいものだわ」
次元の言葉に直接答えようとはせず、部屋のなかをぐるっと見まわしたあと、不二子は、次元がいるソファの正面にある低いテーブルに、そのまま腰をかけた。
「あいつがおまえになにを頼んだんだ」
「今回のヤマはもともとあたしの仕事だって聞いてないの?あたしがルパンに頼んだのよ。だいぶややこしい大富豪のお屋敷なんだけど、そのぶん溜めこんだお宝がザークザク。ちょっと入り込むすきは見つけたけど、警備システムがヤバすぎで手が出ないの。だから、その情報提供のかわりに、ルパンに忍び込んでもらって、お宝を山分けって」
次元は肩をすくめた。妙にうきうきしているくせに、どこから得た情報なのかは口を濁してごまかしていたルパンの姿を思い出す。どうせそんなことだろうとは思っていたが、仕事そのものにまでこの女を引きこんでいるとはこりない奴だ。
「ちなみに、4:6よ。もちろん6があたし」
「あいつはそんなこと言ってなかった」
「で、もうどれくらい待ってるの?信頼厚い相棒さん」
「……三日かな」
本当は一週間だったが、そんなことを正直に言って、不二子との会話を広げる気はなかった。
「仕事が終わるぎりぎりまであたしの出番はなさそうだから、ルパンがここで待ってろって言ったのよ」
「……あいつめ」
もちろん、連絡すべき相手が複数名ならば、固まって待たせていた方が合理的だ。その当たり前の判断に納得するのが何故かしゃくで、次元はソファから起き上がろうとはせず、不二子にドアを指さした。
「廊下をまっすぐ行って突き当たったところにある部屋が寝室だ。誰も使っちゃいないからそこにいろ」
「あなたはどこで寝てるの」
「……」
返事をする必要も感じなかった。次元はすでに肌になじんで薄汚れつつあるソファのクッションを手に取り、頭を乗せ直す。
「ルパンからの連絡はこの部屋にあるあのばかでかい特殊な無線機からしか来ない。来たら教える」
「いつ来るの」
「おれの知ったことじゃないね」
次元はこみあげてきた苛々を声に隠そうともせず、帽子を深くかぶりなおした。女との必要以外の会話に意味を見いだせる性分では無かった。さらに相手が不二子となるとなおさらだ。
「ただ待つのって退屈。なにか面白いこと無い?」
そう言いつつ、不二子も次元の返事などは求めていない様子で、テーブルに置かれたままのワインを勝手にグラスについでいる。なにこの安ワイン、とつぶやきながら。
「こんな森の中に娯楽なんかあるわけねえよ。おれはもう寝るから、勝手にしろ」
そう言い放って次元は目を閉じた。寝る前にもう一本吸っておくんだったかという考えが頭をかすめたが、これ以上起きて不二子の相手をする方が面倒だった。
「ちょっと。あたしはゲストよ、もてなしなさいよ」
「……意味が分からねえ」
いきなり身体にかかった重みと柔らかい感触に驚いて、次元が薄眼を開けると、不二子は寝転がったままの次元の身体に、グラスを持ったまま腰をおろしていた。ご丁寧に、足まで組んで。
「おまえ、おれは座布団扱いされる気はねえぞ。とっとと降りろ!」
もうすこし苛立ちが強ければ、マグナムを出して頭に突きつけてやっても良かったのだが、という次元の内心など知る由もなく、不二子はグラスを口に運んで笑った。
「ルパンからはいつ連絡が来るかも分からないんでしょ。いいじゃない、とびっきりのいい女に少しくらい付きあっても」
「そういうじゃれあいはルパンが相手だろ」
「そのルパンがいないんですもの」
次元は溜息をつき、身体を起こした。不二子を片手で押しのけ、テーブルにある入れっぱなしのコーヒーにバーボンをつぎ足す。
「一杯だけ付きあうから、それを飲んだらとっとと自分の部屋に行ってくれ」
こういうところが自分の芯のところの甘さなのだ、と次元は思う。うるさい女を一発殴って部屋から追い出すことも出来なければ、それこそルパンのように適当に甘やかしていなすことも出来ない。それが性分なのだから仕方が無いのだが。こんな災厄のような女を目の前にしていると、その性分こそが恨めしい。
しかし、不二子はそんな次元の思惑にも気づかない様子で、次元の横でワインを飲んでいる。そして言った。
「意外と次元って可愛いところあるわね」
「はあ?」
思いもよらない言葉に、コーヒーを持つ手が揺れる。こいつなにを考えているんだ?と次元は不二子の顔を見た。しかし不二子はただ笑っている。
「女にそんな風に言われることないの」
「あるわけねえだろ。おまえもう酔ってるのか」
早く飲んで終わらせてしまおう、と次元はコーヒーを一口飲んだ。しかし、不二子はそれ以上ワインを飲もうとはせず、次元が驚くほどスムーズに、ゆっくりと、次元の身体に身を寄せてきた。
「あら、可愛いわよ。そうやって素直にびっくりしちゃうとことか……」
これはこの女のとっておきの上目遣いなんだろうな。そう思いながらも、次元は不二子から視線を動かすことが出来ない。からかわれているのか、馬鹿にされているのか、おもちゃにされているのか。それともその全部か。不二子の顔に浮かんでいる笑みがいまいましかった。
「キスを、よけられないとことか……」
ささやきとともに、唇がゆっくりと近づいてきたが、最後にその距離を埋めたのは次元のほうだった。不二子の唇にいつまでも浮かぶ笑いを、いいかげんに消したくなったからだ。しかし、不二子の笑みは消えない。微笑みのかたちのまま、何度も唇が押しつけられ、ささやきが漏れる。おまえの笑みはおれを嘲っているように見えるんだよ、と次元は内心でつぶやいた。
「……煙草臭いキス」
「いやならやめるぜ」
「女が本当にいやなときにどう言うのか、知らないのね」
わずかな間と息遣い。ふたつの唇が合わさって離れる時の小さなさえずりのような音だけが、くりかえし部屋に響いた。不二子の唇はワインの湿り気とアルコールの香りで濡れており、それが何度も重なるたびに、自然と次元の唇も濡れていった。
「……あなたとこういうことしたの、初めてじゃなかったわね、確か」
「どうだっけかな。おれは、おまえさんみたいな尻軽と違って、いたって純情なたちだからな」
「純情が聞いて呆れるわ」
不二子が力をこめて握ったそれは、すでに熱くなっていて、次元は自身の肉体の素直すぎる反応に、溜息と共に天を仰ぐしかない。古い屋敷の天井に広がったぼんやりとした沁みのかたちは、次元に、人間が撃たれた時に広がる血の溜まりを不思議と連想させた。そんなものを何度見てきたか分からないからかもしれない。
「……ルパンからの連絡は、いつ来るかしら」
もはや大して興味もなさそうに、それでも不二子は重ねて問う。
「さあな」
いったん唇を外したものの、次元の胸元からは離れようとしないまま、不二子は指を伸ばして次元の髭を弄ぶようにして指先に絡める。いたずらっぽく笑う声が、次元の耳をくすぐった。
「ルパンがこんな場面を見たらと思ったら、燃える?」
「勘弁してくれ……」
もしルパンがいまここに飛び込んできたら。もちろん目をまん丸くして、おまえらどうした?!と叫ぶだろう。そして自分に、てっめえ次元、よくもおれの不二子を……と掴みかかってくるかもしれない。もう金輪際お前とは縁切りだ!出てけ!と叫ぶような気もする。そして自分は肩をすくめて言われたとおりに姿を消すだろう。
しかし、そのあと、数日、数週間、数か月たった頃に、きっとルパンはまた自分を見つけるだろう。ちょーっとややこしい仕事があんだよ、じげーん。腕ききのガンマンじゃねえと頼めないようなさ、とあのサル顔に愛きょうを浮かべてやってくるだろう。自分と不二子の間になにがあったか、などということはすっかり忘れているか、気にしない気にしないと手を振って、そんなことより仕事の話だ、と、とっておきのネタを振るのだろう。そしてその横に不二子が立っていても、自分はたいして驚きもせずに、その話に耳を傾けるはずだ。
そう、きっとそんなこと。そのていどのことなのだ。
次元は、自分の胸元に顔をうずめている不二子を見る。
そこにいるのは掛け値なしに本物のいい女だ。頭のてっぺんからつま先まで魔法の粉を振りかけられて、きらきらと輝いているような、文句なしの男の夢だ。性悪女?トラブルメイカー?嘘と裏切りのドレスを身にまとった魔女?そんな呼び名がそのままこの女に関しては手放しの称賛となる。彼女の前に立ったすべての男が、これまでの人生でただ一人の女だと血迷ってしまうような生き物。それが峰不二子だ。
これまで不二子にかけられてきた迷惑や振り回されてきた様々な場面を思い返しても、いま感じるその事実は揺るぎそうにない。自分はあくまで添え物にすぎないそんなトラブルの主人公たるルパンにとっても、それは同じことだろう。だからルパンは不二子を手離さない。
もっとも、不二子がルパンの手の中にいるような存在かどうかはまた別問題だ。もちろん、俺の手の中なんざ、もっと問題外だ、と次元は思った。
「……次元」
次元のそんな思いが途切れるのを待っていたかのように、不二子が上半身を起こした。ピン、と次元の帽子のつばをはじいて、あらわになった次元の瞳と、視線を合わせるようにして、ささやく。
「ああ……?」
自分の身体にぴったりと寄り添う女の体温が、火に当たっているように熱くなっている。ワインの酔いだけではごまかせない瞳のにじんだようなゆらめきが、呆れるほど美しいのを次元は感じる。
「ルパンが来ないわ」
「そうだな」
「だからこれは……」
わずかに、言葉が途切れる。迷うように。あるいは、焦らすように。
「ルパンが来るまでの、暇つぶしね」
艶やかに笑って、服のジッパーに手をかける不二子を止めようとは、もはや次元は思わない。かわりに、頭の中でつぶやいた。
ああ、ルパン。
早く来いよ。
さもないと、おれは、この天使のようなあばずれと、とんでもなくつまらないことをやっちまいかねない。
遠くの森からだろうか。次元のそんな思いに応えるように、獣の吠え声が重く響く。それを耳の奥で聞きながら、次元は、不二子の髪に手を伸ばした。……つもりだった。
思考よりも早く身体が動いた結果、なにもかもが同時に起きた。銃声と窓ガラスが割れる音。一気に吹きこむ夜の風と、一瞬遅れて響く、人間が倒れる音。
目の前の不二子のあ然とした表情に、次元は自分がマグナムの銃弾を不二子の身体をすれすれに、窓ガラスに撃ちこんだことに気づく。しかし、謝罪している場合ではない。不二子を押しのけ、ソファからはね起きる。
「……なんてこった」
割れた窓ガラスからのぞいた死体の顔には見覚えがあった。ルパンが忍び込んだ先のチンピラだ。その死体に握られている拳銃の檄鉄が上がる僅かな音と雰囲気に、反射的に反応した自分の勘の良さに、次元は感謝した。
「連絡が来ないのも道理だな。ルパンによくないことがあった……不二子?」
振り返ってみれば、さっきまで自分の腕の中にいた女の姿はなく、返事のようにハーレーのエンジン音が響き、すぐに遠ざかっていった。
不二子はひとあし先にルパンの潜伏先に駆けつけるつもりなのかもしれない。いや、そもそもこの男を引きこんでおいて次元を足止めするつもりだったのかも。あの女がやらかしそうな裏切りは、そんな調子で数えていけば、1ダースでも2ダースにでもなりそうで、次元は自然と苦虫を噛み潰したような顔になっていく。
しかし、そんなことを考えている間はなかった。表に置いてある車に不二子がなにか仕掛けをしていないことを祈りながら、次元は車に乗り込んだ。そう焦りつつも、ルパンのことはたいして心配しているわけではない。ただ、ルパンの危機には自分がいなくてはいけないのだ。
車を出しながらも、自分のシャツから、シャネルの甘い香りが漂うのに気づき、次元はケッとちいさく悪態をつく。あの女のキスも色じかけも、単なる時間稼ぎだったのにちがいない。まんまとそれに乗せられたことにイライラしながらも、心のどこかでその落ちに安堵している自分もいる。その事実に思わず苦笑が漏れた。
まったくどうしようもない、不二子というぬかるみに足をとられずにすんだことに安心するとは、自分もどこまでも小さい男だ。
長い間待たされただけあって、そんな風に自分を笑えるほど、ようやく動ける解放感に気分が軽くなっているのは事実だった。待っているのも泥棒の仕事だが、やはり単に待ち続けているよりは、自分で動くほうが気分が躍る。いくぞ、と思ったときに、ほんのわずかな時間だけ手にしそうになった、美しい女の顔が頭に浮かんだ。
いや、そっちは駄目だ。動く気はねえよ。
強がりのように笑ってから、次元は強くアクセルを踏み込んだ。
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