はじまりは、わずかに揺らめくだけのちいさな火だった。それがゆっくりと燃え出したと思っていたら、あっというまに、どんどん大きな炎になって燃え盛っていくのだ。
こんなにかんたんに始まっちゃうものなのね、と不二子は思った。
「この煙突、まだ使えるんだろうな」
次元のその言葉とともに、暖炉に薪が投げ入れられた。火つけ材によってすでにともり始めていた火がくすぶり、少しずつ大きな炎へと変わっていく様子を、不二子はながめる。
「サンタクロースが降りてくる訳じゃないんだから、煙さえ通るんなら大丈夫よ」
不二子は、地下の貯蔵室から持ってきたワインや、チーズ、オリーブの瓶詰といった食材をテーブルに並べながら、次元に言った。しばらく火の様子を観察していた次元は、やがて立ち上がる。
「大丈夫だと思うが、様子だけ見ておいてくれ」
「どこに行くの」
「フロ」
ついさっきまで、古い暖炉の都合をつけるため、外に薪を取りに行ったり、溜まっていた古い灰を捨てたりと働いていたせいで、次元の手と顔には確かに煤がまとわりついてたいへんなことになっていた。ただでさえ、ダークカラーのスーツに髭と帽子と、黒ずくめのところがある男なので、そこまで黒くならなくとも、と不二子は笑ってしまう。
「お背中流しましょうか?」
不二子があえて気取った声でたずねると、次元は手を振って素っ気なく言う。
「遠慮しとく」
次元が浴室に消えてしまうと、不二子は暖炉の前のソファに腰かけて、本格的に燃え始めた薪に目をやった。
ルパンたち一行が、氷漬けになったマンモスとそこに閉じ込められた珍しい原始植物の種というお宝に吸い寄せられるように、この雪山にやってきたのはつい昨日のことである。しかし、当然のことながら、雪で閉ざされた冬山は一筋縄ではいかない舞台だった。スノーモービルで乗りつけたはいいものの、そのマンモスが閉じ込められている氷の塊を五ェ門に切らせたところ、割れた氷の衝撃で雪崩が起きてしまい、全員が這う這うの体で逃げ出すことになってしまったのだ。
その結果として、そもそも、その氷を五ェ門の斬鉄剣で正しく斬ることが出来るのか、という根本的な疑問や、どちらにしてもうまく氷を割らないと、割った瞬間に外気に触れたマンモスの腐敗がはじまり、そこにある植物の種も腐肉に埋もれてしまう可能性もあるなどという問題点が明らかになり、ルパンをおおいに腐らせることとなった。
しかも、雪崩から逃げ出すときのアクシデントで、次元が肩を痛めてしまったのだ。とうとう、作戦の仕切り直しのため、ルパンは五ェ門をつれて氷漬けのマンモスのそばでテントを張り、次元と不二子は、ルパンがあらかじめ見つけて用意していた山荘で待機ということになった。
このていどのことで、と次元は不満を言ったが、ただでさえ冷える冬山で、おまえの指がさらににぶくなっちゃあ困る、大事にしといてくれというルパンの言葉には従うほかはないようだった。
「つまりおれは役立たずということさ」
不二子と二人で山荘に向かうスノーモービルに乗り込んだ次元は、そんなことをつぶやいた。
「ずいぶんひがみっぽいこというのね」
不二子の言葉に反論せず、黙って帽子をかぶり直した次元の姿を見て、不二子は気づく。ひがみなどではない。この男は、たまらなく悔しがっているのだ。
しかし、不機嫌さを隠さない次元とは違って、自分の心は不思議と浮き立っていることにも不二子は気づいていた。だって、しょうがないじゃない?と内心で笑う。
次元とひさしぶりに、ふたりきりになれるのだもの。
女という生き物は二種類に分かれる。自分を求める視線に敏感な女と鈍感な女だ。不二子はもちろん前者だった。男自身も意識していないようなわずかな視線の揺らぎや自然な目の動きを、不二子はいつでも簡単に把握することが出来た。
わずかな気まぐれで唇を合わせた。きっかけはそれだけのことだったはずなのに、次元の視線がそういう意味で自分を追うようになったとたん、その目の動きを意識するだけで、不二子は自分の背中まで不思議な震えが来るのを感じるようになった。
ちょっとした声の揺れや視線の動き、そんな他愛のないものでもおたがいの体温が上がるような微妙なあの感じを、不二子はじっくりと楽しむつもりでいた。いつまでもあいまいに、本気と冗談の境目で、どっちつかずに揺れるような、そんな遊びもいいかも、と思っていた。そのはずだった。
しかし、気がつけばそんな悠長なことを言っていられないような場所に自分は立っていた。いつの間にか、不二子は次元の腕のなかにいて、その唇と、それ以上のものを味わった。そして、もっとこれが欲しいと願ってやまなくなった。
焼けつくような熱情でもなく、みだらに燃える欲情だけというわけでもない。それなのにもっと切実なもの。もっと求めずにはいられないもの。たがいの距離が近寄っては離れ、遠ざかったと思えば不意に抱き寄せられるような、苦しさと快楽がそこにはあった。なんの約束も誓いもないままに、こんな風にゆっくりと深まっていく関係を得たことは、不二子にとって初めての経験だった。こんなもの、知らないわ、と思った。
馬鹿みたい。女はみんなそう思うのよ、と不二子は自分を笑う。こんな気持ちは初めてと、たとえそれが何十回目の体験でも思ってしまうの。そうやっていつでも初めてのとまどいと胸の高鳴りを抱えたままで落ちていくから、恋なのよ。ある日、そんな風に自分をなだめていて、不二子は気づいた。自分の唇を自分で押さえた。
あたし、いま、恋って言った?
「なんだ、ワインしかないのかよ。雪山っていったらウィスキーかブランデーだろう」
「文句ならルパンに言って。だいたい、怪我してるときにお酒はダメでしょ」
次元は風呂上がりのシャツをはおっただけの姿で、ワインをグラスにつぐ。不二子の忠告は無視することに決めたようだ。
「暖炉、きちんと燃えてるのか。一酸化炭素中毒なんてごめんだぜ」
いちいちつっかかってくるわね、と不二子は眉をひそめたが、次元のシャツの下にあるであろう肩の腫れのことを思いだして、やさしく言った。
「肩の湿布を換えておくわ。治りが悪くなったら困るでしょ」
その不二子の言葉には、次元もおとなしくうなずいた。次元をそのまま手近な椅子に座らせて、シャツを脱がせる。裸の肩や腕を見ると、過去の古傷と思しき、ひきつれたような皮膚の痕やわずかに歪んだ色をした傷跡があった。それらに比べれば、いまの肩の腫れは見るぶんにはさほどでもない。
「こうみると、あなた、どの傷が最新なのかよくわかんないわね」
「おれはルパンみたいなゴム人形とは違うんでな。よく、かするのさ」
かするどころではない傷もあるようだったが、不二子は黙って肩の処置を行う。湿布を貼り直し、ずれないように包帯で固定し終えたあと、なんとなく、その肩を抱きしめてみた。
「よせよ。そんな気分じゃねえ」
次元は、不二子を振りほどくように椅子から立ち上がり、暖炉前のソファに座った。不二子はそれを追いかけ、次元の膝の上に横座りで乗る。
「おい」
「馬鹿みたい」
「なんだと」
ルパンに置いていかれたくらいで、そんなに落ち込むなんて、と言葉にはせず不二子は思う。そのまま次元の首にしがみつくように身を寄せた。いつもなら、ふたりきりの時にこんな風に不二子が動けば、そう拒否はしない次元だったが、今日は本当にうとましそうに不二子の手をつかみ、自分の首から外そうとする。
「気分じゃねえって言っただろ」
「気分になればいいのよ」
不二子はそう言って、次元の顔に自分の顔をしっかり近づける。あえてまだ唇は重ねず、次元の目をまっすぐ見つめた。風呂上がりの次元はその目を隠す帽子をかぶっていない。不二子の視線を避けて目をそらす、その憮然とした表情を確かめて、不二子は言った。
「ルパンは、深夜から夜明けまでの気温の変化と、それの氷への影響を確かめたいって言ってたわ」
「だからなんだ」
「朝までふたりきりってことよ、ダーリン」
甘えた声で不二子がささやくと、不二子が驚いたことに、次元は笑った。
「おまえ、ここがこんな、なにもない雪山で、まだお宝も手に入れてないうちだからいいけどな。そうじゃなかったら、百パーセント、おれをだましてひっかけようとしているとしか聞こえねえぜ」
「失礼ね」
不二子は思わず唇をとがらせてしまう。
「ひとがせっかく甘く誘惑してあげてるのに」
「おれにダーリンはねえよ」
次元は笑いを消さないまま、不二子の髪に触れた。
「次元、でいい。あまりつくるな」
その言葉に、不二子は一瞬、虚を突かれたような気持ちになる。
「おまえの言葉はつねに嘘にしか聞こえないんだから。せめておれの前ではシンプルでいろ」
「あら、ひどい」
唇をとがらせたまま、甘えた口調で抗議するように言いながらも、不二子は自分の鼓動がどんどん早くなっていくのを感じる。どうしてだろう。なんでもないこの男の言葉に、こころのなかの柔らかいところをすっと撫でられたような気持ちになった。
そんな、自分のなかに広がった気づきの波紋をごまかすように、不二子は言葉をつづけた。
「あたしがなにを言っても、嘘なんて。傷ついちゃうわ」
「自分の胸に手をあてて、己の所業を思い出してみるんだな」
次元の笑いは意地悪いものに変化している。それを見ると、不二子のなかでむらむらと対抗心にも似た火種が起こってしまう。
「あたしが言うことがみんな嘘だって言うんなら、なにをいっても平気ね、本気にしないわね?」
確かめるように言う不二子の言葉に、次元は平然と答える。
「まあな」
「あそこはちっともマグナムじゃないへなちょこくん」
「それは嘘じゃなくて悪口だろうが」
「じゃあ…」
不二子は懸命に考えてしまう。次元に言ってやりたい、ほんとうのこと。もしくは嘘のこと。自分のなかでわき上がっている不思議な気持ち。そんな、自分のなかでもどうしていいか分からないようなもやもやした素直さを、いまこの場で不意にぶつけたら、この男はどんな顔をするだろうか。からかいや冗談にまぎらわして、思ったままを口にすれば、それは届くのだろうか。
そこまで思ったときに、不二子の口から、ある言葉がすべり落ちていった。
「あたし、あなたに恋してるわ、次元」
言った瞬間から、不二子の声は震えた。どんどん顔が熱くなっていく。なんてこと。こんなことを言うつもりではなかったのに。それならば、いっそもっと適当に、どんどん甘い言葉を追加していかなくちゃ、と不二子は思った。すべてが冗談に終わるように。やっぱり嘘じゃねえかと次元が笑ってすませるために。
けれど、驚きを隠せていない次元の顔を見ると、喉になにかが詰めこまれたように、不二子の口からは、いっさいの言葉が出なくなってしまうのだ。
「顔、真っ赤じゃねえか」
そう言う次元の顔もほのかに赤い気がする。不二子はたまらずに、次元に抱きついて、その胸に顔をうずめる。これ以上、顔を見られないために。
「暖炉の火が熱いからよ。火が近いところはこんなに熱くなるくせに、手足は冷たいの。こういう非効率的な前世紀の遺物はこれだからいやよ」
ようやく強がってそんな風に訴える自分の声も、どこかうわずっていることに不二子は気づく。馬鹿みたい。お願いだから次元、無視してね、と思う。さっきの言葉を流してしまってね、と思う。
「ほんとうに冷えてるな」
次元の手が不二子の指を握った。
「でも、顔は熱い。火がついたみたいだぜ」
火ならずっとついているわよ、と不二子は思う。いつからかは分からないけれど、心臓のずっと奥底、心の底から上がってきた熱が苦しくて頭がぼうっとしてしまいそう。熱さに身体がバラバラになってしまいそうなの、この男の腕の中にいると。
「抱いてほしいからよ」
さっきの言葉を打ち消すためならば、本当に抱かれてしまいたかった。欲情のなかに埋めてしまえば、自分の思わぬ言葉など、たがいの記憶のなかに隠れてしまうはずだった。なのに、次元はあっさりとこう答えるのだ。
「…気が乗らねえ」
自分のさっきの言葉が原因だとしたら、と不二子は思う。こんなとき、別の男が相手なら、真実がどうであれ、おれもおまえに夢中だよ、恋しているよとささやいてくれるだろう。そして、その嘘もほんとうも確かめないままで、やさしく、くちづけしてくれるだろう。
けれど、次元は違った。違うはずだった。そういうのは無しだ、とあっさり言われて終わる可能性に、不二子は指先が震えるような緊張を感じる。てごわすぎて涙が出そう。その場しのぎの甘い嘘もいえない男なんて。
次元の言葉はいつも嘘が無さ過ぎるから、自分のような嘘つきの言葉はその前で無力になってしまう。だからどうしていいかわからなくなってしまうのだ、と不二子は思う。でも次元。いまは嘘をついて。嘘をついて。嘘をついて。いまだけは、正直になるのはやめて。お願いだから。
やがて、次元の手が不二子の顔に触れた。あごをやさしく持ちあげられ、不二子は次元と視線を合わせる。
「こんないい女相手に失礼な話だが、いまは、セックスはいらねえよ」
そのまま、不二子は額に次元の唇が触れるのを感じた。
「こうしてるだけで満足だ」
その言葉に、不二子は自分が見つめる次元の顔が潤んでぼやけるのを感じる。次元の表情があっけにとられたものに変わるのを不二子は見た。
「その…そんなにヤりたかったか…?」
「馬鹿!」
次元のズレた反応に、不二子は思わず笑ってしまう。笑ったまま、指先で目頭をぬぐった。
「そんなこと言うなんて、ずいぶん弱気になってない?情けなくて涙が出たわよ」
不二子は次元から身体を離し、ソファから降りた。
「寝室に行きましょう。でも、セックスのためじゃないわよ。いつまでもそんな恰好でこんなソファにいたら、傷に触るわ。明日の朝、ルパンに呼ばれたら万全の態勢で行けるように、今夜はこれからしっかり睡眠をとるのよ。あたしもいっしょにそこで眠るわ」
「…それがいいな、今日は疲れた」
次元もうなずいた。それを見て、不二子は微笑む。
思えば、ふたりの仲が親密なものになったあとも、しばらくのあいだ、次元が不二子のまえで眠ることはなかった。不二子の方は、抱きあったあとの心地良いけだるさにまかせて目を閉じれば、そのまますぐ夢うつつのなかに落ちていくことが出来たのだけど、やがて不二子が目をさましてみれば、すでに次元は起き出して、煙草をふかしているか、姿がすでに見えなくなっていることばかりだった。
それが、そんな朝をなんどかくりかえしているうちに、いつしか次元は不二子を抱いたまま、自然な寝息をたてるようになった。寝ぼけ眼の次元をつついて意地悪に起こすような遊びもできるようになった。そんな変化に気づいたとき、不二子の心に浮かんできたのは、間違いなく喜びだった。そんなことを思い出し、どうしようもないわ、と不二子は思う。どうやら、このままいくしかないみたい。
なにせ初めてのことだから。不二子は思う。どれだけたくさんの男に愛されて、きまぐれな恋を楽しんできた自分であっても、この男に恋をするのは生まれて初めてのことだから。ただ、どうしようもなくハートに火がついてしまったことしか、分からない。しかもその火はどんどん燃えて胸を焦がしているっていうのに、あたしはそれを消したくないんだもの。
不二子と共に部屋を出ていくときに、次元は、いつのまにか火が小さくなっている暖炉のほうに目を向けた。
「あの火はそのままでもいいか」
「そうね。きっと自然に消えちゃうわ」
あたしのハートについた火は、とうぶん消えそうにないけれど、と思いながら、不二子は、次元の腕をとった。
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