赤い月

 やっと見つけたわ、と峰不二子はため息をつく。

 祈りの文句は不二子の耳には届かない。しかし、不二子はそれを気にしなかった。なぜなら、不二子はそもそも牧師の言葉が届く場所にはいなかったからだ。そんなことよりも気になるのは、あの男がそこにいるかどうかだった。そして、珍しくも帽子を取って立ち尽くしているその姿をようやく遠目で確認すると、不二子は車のボンネットにもたれる。不二子はその日、ずっと、あの男、次元大介を探していたのだ。

 神出鬼没のルパンやとんでもない場所へ修行に出かける五ェ門とは違って、次元という男は、仕事以外ではアジトにこもりがちの出不精だ。出かける場所といえば酒場かカジノ、たまに小遣い稼ぎでボディガードや用心棒の仕事をすることがあるくらいで、その行動範囲はそう広くない。だからアジトにその姿が無かったときも、不二子はすぐに見つけることができると思っていた。しかし、あんがいそうではなかったのだ。こんなところにいるなんて、車に発信機をつけていたことを思い出さなきゃ見つけられなかったわと不二子は思う。よりにもよって、墓地なんて。

 そう、次元を探した不二子がたどりついたは、郊外にあるこぢんまりとした墓地だった。そこで行われていたささやかな葬儀の列のなかに、次元の姿はあった。しかし、不二子がそこに着いた時にはすでに葬儀は終わりかけていたらしい。一人減り二人減りといなくなっていく参列者のなかで、最後に残った次元が、墓のそばにひとりで立ち尽くしている女に声をかけているのを不二子は見る。

 さしずめ、未亡人というところなのだろう。遠目に見ても美しいその女は次元の言葉に答えているようだったが、やがて肩を震わせはじめた。次元の手がそっとその肩に触れたところで、不二子は目をそらした。死者とその遺族は尊重されなくてはならない。当り前のことだ。だというのに、こんなことでざわついた自分の気持ちがなんともみっともなく感じられて、不二子は舌打ちしたい気持ちになる。

 やがて次元は未亡人から離れて車の方へ歩いてきた。そして、そこに立っている不二子の姿を認めると、帽子の下の眉を露骨にしかめてみせる。

「どうしてここにいる」
「たまたまよ」

 次元はそれ以上追及することもなく車に乗った。不二子も助手席に乗りこむ。そのまま車は動き出す。どうしてここにいると言ったわりには、次元は降りろとも言わずに黙っている。おかしな男ね、と不二子は思う。

「お友達?」
 遠ざかっていく墓地の方を見て不二子は言う。
「知り合いだ」
 それきり次元はふたたび黙ってしまう。

「……どこに行くの」
「酒だ。葬式のあとは吞まねえとな」

 ようやく素っ気なく言ったあと、次元は不二子の方を見ずに続けた。

「つきあえよ」

 

 

 次元が不二子を連れてきた店は、まだ宵の口であるにもかかわらず、そこそこの客でにぎわっていた。店のなかを一瞥して不二子には分かった。ここは裏社会と表の世界の緩衝地帯だ。

 都会にはときどきこういう店がある。あくまでカタギ相手に営業しているにも関わらず、不思議と穴倉めいた雰囲気が漂っている場所だ。そういう店には自然と裏稼業の人間もビジネス抜きで出入りするようになる。そしてやがて、大学教師と用心棒が煙草の火を貸し借りしたり、ついさきほど仕事を終えてきた殺し屋が隅でグラスを傾けていても目立たないような不思議な空間が出来上がるのだ。次元のような男には似合いの店と言えた。

 ふたりがカウンターに寄った瞬間に、次元に声をかけてきた男がいた。軽く目で挨拶するその仕草で、次元とは馴染みらしいことが不二子にも知れる。ということは、この男も裏稼業ということだろう。男は十字を切りながら言った。

「聞いたぜ。あの野郎、今日が葬式か」
「行ってきたところだ」

 つまり今日葬られた男は次元だけでなくこの男とも知り合いだったらしい。不二子はふたりの会話になんとなく耳を傾ける。そして、続く男の言葉を聞いたとたんに、不二子の目は猫のように光った。

「そういやあいつ、えれえベッピンの女房がいたんじゃねえか。早死にとは勿体ないねえ」
「ああ。だからあいつが墓に下ろされるときに、女房の相手はおれに任せて安らかに眠れと言っておいた……いて」

 相手に合わせた次元の軽い言葉の語尾が消えたのは、不二子の指が次元の手をつねりあげたからだった。次元は手を押さえて不二子を見るが、不二子はつん、とすましてみせる。
ちょうどそのとき、また別の男が次元に声をかけてきた。それを潮に、次元はグラスを持ったまま不二子のそばを離れていく。それを見送ると、不二子はふと、喉の渇きを感じる。カウンターの向こうに視線を向けると、バーテンがにっこりと笑った。栗色の巻き毛が可愛い若い男だ。

「なにかお飲みになりますか」
「そうね。あたしあまりお酒に強くないの。飲みやすいカクテルを作って下さらない?」

 すこし甘えた声で言ってみれば、目の前のバーテンは最優先オーダーが入ったと言わんばかりの勢いでうなずいて、すぐさまカクテルを作り始めた。そしてその作業の途中でも、不二子から目を離すのが惜しいといわんばかりに、ちらちらと視線を向けてくる。あえて周りを見回さずとも、そんな男はこのバーテンだけではないことが不二子には分かっていた。この酒場にいる何人もの男がいまも不二子に酒をおごる機会をうかがっていることだろう。

 そうよ、そうでなくっちゃと不二子は思う。男という生き物ならば、この峰不二子さまを見たとたんに、トキをつくる雄鶏のようにコッコッと肩を怒らせて歩き、孔雀のように羽を広げてみせるべきなのだ。ベッピンの未亡人の相手をする話などしている場合ではない。

 もちろん、次元は雄鶏や孔雀というタイプではないのはたしかだ。たとえるならば、と思った不二子の頭に浮かんだのは一匹の痩せたドーベルマンだった。その方が次元らしいと言えばそれらしい。でも、ドーベルマンだって大好きなご主人さまの前に出れば尻尾を振るはずよ、と思ったとたん、不二子の頭にはルパンの顔が浮かんでしまう。ちょうどそのときに、バーテンが不二子の前にグラスを差し出した。

「あなたにふさわしい、美の女神の名前のカクテル、“アフロディテ”です」
 赤みがかったピンク色の美しいカクテルだった。口にすればキイチゴの風味が甘酸っぱく、たしかに飲みやすい。
「美味しいわ」
 不二子は微笑んでバーテンを見る。バーテンはすでにほかの客の対応はそっちのけで、不二子専用のバーテンになることを決めたようだった。

「この店は初めてですね」
「ええ、かれが連れてきてくれたの」

 バーテンはうなずく。

「あのひとがこんな美人を連れてくるなんて驚きですよ。お友達といっしょのことはあるんですが」
「友達?」
「派手な色のジャケットを着た、楽しいひとです」

 ルパンね、と不二子は思う。いつもは面倒くさがりでなにかとクールぶっている次元も、ルパンといるときだけはそうではない。ルパン三世という男が持つ明るさや天性の情熱やエネルギーが、次元のつまらない鬱屈を明るく照らし、燃やしてしまう。だからこそルパンは次元の相棒なのだ。そこまで思ったときに、不二子は心に小さな苛立ちの波を感じる。そしてその波の正体が、ついさきほど次元の手をつねったときに自分のなかに浮かんだのと同じ感情だと気づき、不二子は笑いたくなる。ドーベルマンのご主人さまにヤキモチとは、重症ね。

「あと、ニッポンのサムライ。お口に合うサケを探すのに苦労しました」

 そういえば五ェ門もルパンとはまた違う距離感で次元のそばにいる男だった。同じ部屋にいるのになにもしゃべらず、次元は雑誌をめくり、五ェ門は刀の手入れなどをしていることもあれば、ふたりで将棋や花札で遊びながら、本気になってやりあっていることもある。そういうところはまるで兄と弟のようでもあった。ルパンもそうだが、次元もまた五ェ門のことを、おかしな言い方になるが、可愛がっている。世間ずれをしていないサムライをからかうこともあるけれど、それ以上になにかと便宜をはかってやっているのだ。

「ふたりとも知ってるわ。でも……」

 不二子はなんとなくカマをかけたくなる。本来、水商売の人間は客に関することでは口が堅い。しかし、このバーテンは不二子が目の前にいて微笑みながら見つめるだけで、小学校のときの初恋の相手から自分のクレジットカードの暗証番号までべらべらとしゃべるだろう。

「女と来ることはないわけ?」
「そりゃないですね」

 バーテンがあっさり答えるので、不二子はにっこり微笑んでしまう。続く言葉を聞くまでは。

「だいたい、女性は現地調達って決めてるみたいで……」
 そこまでバーテンが言った時に、かれの顔色が変わった。

「兄さん、おれの連れにおかしなことを吹き込むなよ」

 次元がカウンターに戻ってきたのだ。なにをどこまで話したか、という顔つきでバーテンと不二子の顔をさりげなくうかがっている。なるほど、ことさらシングルスバーと謳ってはいなくとも、自然と男女が出会う場所となっている酒場はどの街にもある。この店もそのひとつというわけね、と不二子は納得する。

「もちろんです、あの、それはもっぱらお友達の方で」

 バーテンのフォローを聞いて、不二子は思わず笑った。もちろん、不二子も次元がここで女をあさっているとまでは思わない。しかし、次元のような男は、ルパンが十人に声をかけ、五人にカクテルをおごらされ、三人にビンタされ、二人の電話番号をゲットし、一人をベッドに連れていくあいだに、さりげなく隣に座って会話を交わすたったひとりの女に恵まれるタイプだった。そう考えるなら、もういちど手をつねってやってもいいかもしれないわね、と不二子は思う。

「つきあう人間を考えねえと、こっちにまで悪評が飛んでくるな」

 しかし次元は素っ気なくそう言うと、不二子のカクテルのそばに札を置き、踵を返した。不二子は笑いを消さずにそれにしたがう。それがいささか、そう、この男にしてはいささか、あわてた仕草に思えたからだ。

 

 

 不思議だわ、と不二子は思う。あんな風に酒場から連れ出しておいて、次元はなにをしゃべるというわけでもなく、不二子を乗せたまま車を走らせていた。どこに向かっているかも分からない。しかし、それをたずねたとたんに、車がアジトに向かってしまうような気がして、不二子はただ黙って夜の風が髪を揺らすのに任せた。帰りたくない、と思ったからだ。

 車が止まったのは、しばらく前に、不二子が次元を見つけたあの墓地だった。もちろん、すでに日は暮れ、夜のとばりがおりた墓地にはもうだれもいない。

「……葬式に出るのは慣れちゃいるが、気分のいいもんじゃねえ」

 次元は、昼間、自分が立っていたあたりに視線をやっていた。

「しかも死んだ男の女房と挨拶するなんざ最悪だ」
「でも、行ったのね」
「死人と約束してたからな。明日の命も知れねえヤクザな稼業をしてる男でも、惚れた女を残して逝くとなると、あとのことが気にかかるらしい」

 それきり、次元は口ごもる。なにかを思い出しているのだと不二子は気づく。次元の心の奥底には過去という名のなにかがいつも沈んでいる。それはかつて愛した女のため息かもしれないし、殺してきた人間の骨かもしれない。この男の面倒ごとを嫌う、ぶっきらぼうないつもの態度も、単に己の心を必要以上に揺さぶられることを避けてのことなのだ。

 それは泥水を入れたビーカーを揺らすと、それまで底に沈んでいた泥や石や砂が浮かび上がってくることに似ていた。そんな雑多なものがふたたび沈んでいって見えなくなるまでには時間がかかる。それと同じように、心が揺さぶられると忘れていた過去の亡霊が浮かび上がってきてしまうことがあるのだ。いま、次元はそんなものを見ているのかもしれない、と不二子は思う。

「……昔から、自分がくたばったときには、とっとと次の男を探して幸せになってくれと伝えてほしいと言われてたのさ」
「あなた、そんなこと奥さんに言いに行ったの」
「そりゃ女房がベッピンだって知ってたからな……いてえ」

 不二子はもういちど次元の手をつねり上げる。もちろん、軽くだ。からかわれているのは分かっていたが、それでもこんなところに自分を連れてきた次元の気持ちは分からない。けれど、と不二子は思う。分からないのは次元の気持ち以上に自分の気持ちだといえた。

 最初の頃は、次元に感じた気持ちを単に好奇心と名付けてみたこともある。しかし、それならば、いちど抱かれたら満足するはずだった。なのに、いちどどころかなんど抱かれてもこの男のことは分からなかった。単純な男だと思っていたのに、触れあう機会が増えれば増えるほど、これまでの表面上の付き合いで分かったと思っていたことが分からなくなり、不二子は混乱した。混乱してますます次元のことが気になった。その必死さに、自分のことながら唖然としてしまうこともしばしばだった。次元といると、自分の知らない自分が次々と現れてくる。自分のなかに思わぬ感情や想いがしまわれていたことに気づかされる。それは不二子にとって、とても新鮮な経験だった。

 あたしはこんなにあたしのことを知らなかった。だからこそ、次元のことだって知らない、分からないのは当たり前だった。ならばもっと知りたい、と不二子は思わずにいられないのだ。そしてこうしているいまも、主人であり相棒であるルパンとも、仲間であり友人でもある五ェ門とも違う、不二子だけがもつことが出来る、次元とのなにかを確かめたいと不二子は思ってしまう。いつも目の前にあるようで、すぐに分からなくなってしまう、この男と自分のあいだにある、なにかを。

「分からねえな」

 そんな不二子の心を見透かしたかのように、次元がいきなりそんなことをつぶやくので、不二子は驚いてしまう。

「なにが」
「おまえさ。いつもはうるさいくらいにおしゃべりなのに、おれといるときは無口だ」

 そうかしら、と不二子は思う。きっといつも頭の中でうるさいくらいに考えてしまっているからだ。そしてなにより、この男を相手にしたときだけはなにが正解か分からないから、思うことを口に出すのはためらわれてしまうのだ。

「あなたはあたしのおしゃべりなんか興味ないでしょ」

 不二子はあえてあっさりと答えてみる。

「あたし、無駄なことはしない主義なの」
「おれといるのは無駄なことじゃねえのか」

 不二子はその言葉の響きに驚く。ぶっきらぼうな、けれど、それだけで終わらないような、なにかを確認するような声だった。不二子は、自分でも口にすると思っていなかった言葉が、自然とそれに答えたことに気づく。

「……あたし、あなたが好きよ、次元」

 その言葉に対する次元の答えはなかった。不二子もそれを求めてはいなかった。だから、次元の手が伸びて、不二子の頭に触れ、己の方に抱き寄せたことに、驚いた。
不二子はそのまま次元に身をゆだねた。次元はなにも言わないまま、不二子を片手で抱いている。ふと、不二子は思い出す。次元と抱きあうようになった当初、よく次元の顔に浮かんでいたあの表情を。

 あの頃の次元は不二子が示す自分への好意に戸惑いを隠さなかった。そしてそんな顔を見るたびに、不二子は腹立たしさや寂しさを感じたのだ。しかし、その戸惑いの陰には次元らしい羞恥や不二子への好意がひそんでいることを、不二子はいつしか知るようになった。もしかしていま、次元はあの頃のような顔をしているのかもしれない。だからこのぶっきらぼうな仕草を、不二子は許した。

 次元に抱かれたまま、不二子は夜の空を見上げる。今夜の月は不気味なほど、赤かった。赤く錆びたようなその色は、不二子に汚れた血の色を連想させた。不二子はそのまま月から目をそらす。これは自分たちの色だ、と不二子は思う。どこに逃げてもつきまとう月の光ですら、赤いのだ。

「……ねえ、もしあなたがだれかに遺言を残すとしても、次の男を探してくれ、なんて言葉は残さないでね」
「いけねえか」
「いけねえわ」

 不二子は次元の口調を真似して繰り返す。

「そんなことを伝えたくて、ここに連れてきたんだとしたら残念でした。きっとベッピンの未亡人もそう思ったはずよ。あなたにそんなこと言われて、きっと、奥さん、あの馬鹿、地獄に行けばいいと言ったでしょ」

 不二子の言葉に次元がちいさくうめいた。どうやらその通りだったらしい。

「男の思惑は女には通じねえな」
「おたがいさまね」

 不二子は次元の身体に、さらにその身を寄せた。

「だから自分が死んだあとのことなんか考えないで」

 不二子は顔を上げて、次元の唇にかすめるようなくちづけをする。過去の亡霊も、いつもの鬱屈も戸惑いも、もしかしたら未来にいつか来る血の運命も、いまは必要がないと伝えるために。

「いま、目の前にいるあたしのことだけを、考えてちょうだい」

 あなたを好きなあたしのことを。不二子がそう思ったときに、次元が不二子を抱いたまま、つぶやくように言った。

「……なあ、葬式が終わってベッピンの未亡人に泣かれて車に戻ったときに、そこにおまえがいたのを見て、おれがどう思ったか分かるか」
「この女を置いては死ねない」

 冗談交じりに答えた不二子の言葉に、次元は黙る。

「なによ」
「……正解だ」

 不二子は、深くため息をつき、次元の胸に顔を埋めた。あの未亡人と同じように、いつ泣き出してもかまわないように。

「……嬉しいわ、次元」

 いまだになにもかも分からないことだらけのこの男の、その言葉に嘘がないことだけは不二子にも分かった。ふたりの指が絡みあった。そこから伝わる温もりこそが、ほかの誰にも渡すことのない、自分だけの次元の気持ちだと、不二子は思った。

 

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