「哲学の教科書」中島義道(講談社学術文庫)



  中島義道といえば「うるさい日本の私」「私の嫌いな10の言葉」など、たくさんの教養的なエッセイを出版していて、わたしもこれまでに何冊か読んでる哲学者です。



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  正直、好き嫌いも多いであろうアクの強い人格が滲み出るものが多く(著者自身もそれを否定していません)、上手く紹介できる自信がなかったのでこれまではとりあげずにいたのですが、この本は、非常に平易(でもない部分も多々あるのですが)に、普通に哲学に興味をもったひとのために書かれており、読みやすく、面白かったのでご紹介することにしました。まさに「哲学の教科書」です。 「哲学」というと興味はあっても非常にとっつきにくかったり、入門書と銘打ちながらそもそも使われている言葉自体、理解不能だったりしますが(わたしだけ?)この本に限ってはそういうこともなく、まさに初心者向けに哲学とはそもそもなにかということから語ってくれます。ゆっくり噛んで含めるように読むことをお奨めします。
 従来の中島義道ファンからしたら独自の毒が少ない感もありますが、それも初心者向けということで、いいのでは。じっくり読める一冊です。

「耳そぎ饅頭」町田康 (講談社文庫)



  町田康のエッセイ集です。色々と読んでみた結果、わたしにはこのひとの詩とエッセイが合うようで、今回も何回か吹き出すことがありました。小説だと前後のつながりやだだもれになっているがごとき思考の羅列が飛びすぎててついていけないこともあるのですが、エッセイならそこまで行かないのかもしれない。
 基本的には偏屈で好きに暮らしていた著者が、それはいかがなものかとか物見遊山気分で様々な場所に出掛けた体験をつづっています。とにかくディズニーランド編は笑いました。言葉の流れと選択がどうしようもないのかあえてなのか解らないくらいベタだったりうまかったりなので、とにかくそこが魅力の作家さんです。

「八本脚の蝶」二階堂奥歯(ポプラ社)



 作者とこの本の製作に関しては、こちらのページをどうぞ。わたしもこの紹介を読んで、興味を持ちました。実際のウェブ日記自体もこちらで読めるのですが、どうしても未来→過去になってしまうこの形式よりは、年代順に読んでいける書籍のかたちでぜひ読んでいただきたいと思います。縦書きの雰囲気がぴったりの文章であるし、本自体が、とても丁寧につくられているのです。
 
 最初のほうでは、まだまだ、球体関節人形や、書籍に耽溺するのと同じ調子でコスメやヴィヴィアン・タムの服にうっとりしていた彼女の文章が、じわじわと自らの自律性と聖書からの引用(しかもそれがどういう意図をもってのものなのか、痛いくらいになんというか、こう、分かります…)に侵食されるようになる過程は、その視線が真剣であればあるほどこちらの胸が痛みます。マゾヒズムとフェミニズムの同居と矛盾に悩む彼女の文章は、それ自体が、一個の詩でありえます。
 
 聖書からの引用と彼女自身の文章の区別が明確でなくなり、生きることへの恐怖から死に惹かれはじめる。初めてそれが具体的に浮かび上がってから、(痛々しい未遂を何度も繰り返しながら)成功するまでは、一ヶ月足らず。言葉はこんなにもあふれているのに、その過程は理解できるようで困難だ。溢れる言葉がかえって言葉足らずに感じるとき、わたしたちは、結局、人間同士の断絶というものを感じるのかもしれない。もちろん、この日記に触れていないことも多いだろう。(たとえば5年越しの恋人の存在は日記のなかではほとんど触れられることはない。わずかに触れられるとき、その文章が愛に満ちているのが、また哀しい)実際に、具体的に生きるというこのなにがそんなに彼女を恐れさせたのか。13人もいる解説の誰もが死の理由にそのものに触れない。間違いを恐れるように。
 正直云って、わたしは奥歯さんのように迷いつつも、彼女と同じ道は選べないと思った。彼女とわたしにはある一点で共通点があって、わたしはいまだそれを解決しえてない。彼女もまた解決に向かうよりはるかに魅力的な道を選んでしまった。それがどんなに蜜のように甘くとも、わたしは蝶たりえない。なにより、彼女ほどのひとでも恐ろしくて迷い続けたここなのだから、わたしなどがぐるぐると迷っても当然なのだ。怖いくらいの共通点があるという思い上がりからこういう結論に達するのもまたただのあがきかもしれないけれど。
 生きなくては、いけないのだ。少なくとも、わたしは。

 「殺人マニア宣言」柳下毅一郎(ちくま文庫)



  映画評論家の町山智弘氏とのコンビ、ファビュラス・バーカーボーイズで名前を知った筆者のもう一つの顔が犯罪研究家です。
 この本は、いわゆる有名シリアル・キラーの名所旧跡(という表現もアレですが)を巡ったり、世界の犯罪博物館を歩いたり、猟奇殺人に関する文献を紹介した物です。お好きなひとには、楽しめるでしょうし、そうでないかたはもう最初から手にとらないほうがよろしいかと。それはもう悪趣味だと云われたらそれまでの世界ですから。わたしもそこらへんは百も承知で、昔からこの手の本をちまちまと読み集めていたんですが、自分でもこういうものに興味があるのは何故だろうと思っていました。凄惨な描写には胸が悪くなったりもしたし、この手の犯罪では犠牲者は女性が多いので他人事とも思えなかった。なのにどうして。
 そこらへんの疑問にある種の答えを与えてくれたのが、巻末に収録された河合修治氏との対談のなかにあった「人間心理の究極のミステリ」という言葉でした。不謹慎なことは分かっていながら、人間であれば越えられないであろう線を越えてしまったひとびとに「なぜ飛び越えられるのか、どうして飛び越えられるのか」という疑問を抱かずにはいられない。たとえば筆者もあとがきで述べているように、コリン・ウィルソンなどは、そういう疑問にある種明確な答えを差し出している。けれども、そこからもまた微妙にずれて存在する澱のようなものは確実にかれらのなかに存在していて、それはわたしたちにとってもまったく縁遠いものとはいえないはずです。
 わたしは、そういうものを知りたいのだと思います。決して交わることのないものの、限りなく平行に近づく二本の揺れて震える線のように、存在する黄昏の世界と現実の世界の空気の混在する香りを感じて。それはとても恐ろしく、空しく、情熱にはほど遠いと思うのですが。

 「こんな映画が、」吉野朔実(PARCO事業局出版部)



 マンガ家の吉野朔実の映画に関するエッセイ集です。
 有名作もあれば聞いたこともない作品もあり。日本映画もあれば遠い外国の作品もあり。ラブストーリーもあればSFも怪獣モノもあり。大作もあればドキュメンタリーもあり。これらバラエティに富んだ100近くの作品の紹介は、ただそれらを読んでいくだけでも十分に楽しめます。ほとんどの作品に添えられたカラーイラストがまた美しかったり、楽しかったりと見ものです。こ難しい理屈抜きで、ひとつひとつの映画の見所と、筆者が感じ入ったポイントを挙げていくあっさり加減が、とてもよいです。

 「私とハルマゲドン」竹熊健太郎(ちくま文庫)



 再読。竹熊氏といえば「サルまん」以外は、一連のエヴァンゲリオンに関する文章くらいしか読んでいないわたしですが、この一冊に関しては、単行本で発行されたときから気になりながら見失い、文庫化されたときに入手しました。
 オウム真理教という事件と、そこにある信者の心性について、自分史を語りながら解きほぐしていった一冊です。「オタク文化論」という風に評されているけれど、わたしには、その表現は他人事すぎるように感じます。この本の中で、竹熊氏は赤裸々に自らの20代の彷徨と迷いを語り(そのなかには数々のドラッグ体験も含まれます)、たびたび、オウム真理教を信じ「出家」した若者と当時の自分には、たいした変わりが無かったはずだと云います。では、その両者を分けたものはなんだったのか?
 わたしは、こういういわゆる「オタク」のひとたちが、様々な社会事件(80年代に起きた埼玉の幼女連続誘拐殺人事件が代表ですが、わたしは、多くの女性のオタクにとり、佐世保の女子小学生による同級生殺人はある種の衝撃だったんじゃないかとずっと思っています。もちろん、わたしもそのひとりで、未だにあの事件に関して感じた気持ちをうまく文章化する自信がありません)に胸をつかれ、我が身に置き換えその事件を解読していく文章に興味があります。それはそのままわたしもオタクであることが理由ですが、なによりも、そこに「わたしがここにいる理由」「かれらでありわたしではなかった理由」が見つかるのではないかと思ってしまうのですね。実際には、わたしはわたしであるのだから、そんなものは自分自身で探すしかないわけですけど。せめてもの手がかりを求めて。
 竹熊氏も、オウム事件の報道を「自分の過去からの逆襲」のように感じ、改めて自らの過去を語ることにより、その気持ちを整理しようとします。そして、15年前にかれが心酔していたXという人物との再会と新たな語らいによりたどりついた結論らしきものは、はっきりと明確なものではなく、しかし、ひとつの答えではあります。やっぱり、ひとは自分で自分の責任を負うしかないのだと。逃げずに生きていくしかないのだな。そして(世間一般の通念とまた違い)オタクであることがすべてそのまま逃げとイコールになるはずはない。なので、わたしはいまの自分のままで、生きていたいです。

「いま私たちが考えるべきこと」橋本治(新潮社)



 両親以外に、いまのわたしを創ったひとがあと何人かいるのなら、間違いなく治ちゃんはそのひとりなわけですが、最近の著書は、何度も何度も考え直し検討しながら読まないと、とても頭に入らない哲学書(昔からそうだとは思います)と化してきたので、なかなか手にとれずにいたのです。これもそんな一冊です。しかし、その一見、回りくどくつかみどころない文章からこぼれだしてくる、かれならではのとてもピュアな視線と誠実な姿勢に、今回はとりわけ打たれました。これは「普通」と「個性」のはざまで揺れてきたひとびとへの謎解きの一冊です。とりわけ第11章の「個性とは哀しいものである」は、非常に胸痛い文章が並びます。
「『一般性をマスターしたその上に開花する個性」などという、都合のいいものはない。個性とは『一般性の先で破綻する』という形でしか訪れない――そういうものだから、しかたない。『個性を獲得する』は、『破綻』と『破綻からの修復作業』なのである」
「個性はそもそも『傷』である。しかし、日本社会が持ち上げたがる『個性』は傷ではない。一般性が達成された先にある、表面上の『差異』である。だから、若い男女は『個性』を求めて、差異化競争に突入する。その結果『雑然たる無個性の群れ』になる。無個性になっていながら、しかし『没個性』は目指さない。目指さないのは、彼や彼女の根本に『傷』がないからである」

 「個性」とは「傷」であること。橋本治はいつもこうやって、昔から知っていたはずなのにどうやって表現すればいいのかわからなかったことに、答えをくれます。久々にその答えに出会いました。これから何度も読み返すでしょう。「花咲く乙女たちのキンピラゴボウ」や「雨の温州蜜柑姫」や「風雅の虎の巻」や「虹のヲルゴオル」やその他たくさんの作品たちと同じように。癖があるひとなので、万人におすすめできるわけではありませんが、でも、わたしは好きなひとだ。

「神菜、頭をよくしてあげよう」大槻ケンヂ(ぴあ)



 オーケンのいつものエッセイ本であります。音楽のことや生活のことなどとりとめなく語ってるようで、いま一番良いスタンスでそれらに向かっている感じがするオーケンの姿が浮き彫りとなっていて、オーケン好きにはおすすめです。とくにオーケンに興味がないひとでも、気楽に読める一冊かと。
 しかし、一生遊んで暮らせるバンドマンという生活を選んだいまは幸せだよライブ楽しいよイエーと書いてる現在のほうが、昔の、タイアップなんて糞だよバンドの運営って中小企業だよいいかげんな奴ばっかでトホホだしなにより病んでる俺が一番トホホ、と書いていた昔よりも、ずっと他者へのエッジが効いてて、目つきが厳しい感じがするんですけど。あんまり云わないようにしてた部分をあえてむき出しにしてるような、そんな印象。無礼な人々や分かってない世間への怒りとか侮蔑の表現が一段と、なんか意識的に厳しい。これまでそれなりに気を遣ってたのを、あえて放棄してみた、そんな感じがする。
 あと、わたしは、オーケンはその『適度』さがちょうどいいと思う。アングラでもヲタクでも、その程度がとても適度なところで止まっている。どんないくらでも深くなり得る素材に当たっても、ある一定以上には行かない(UFOはやばかったのか。でもあれも途中でストップしたんだよな)。そこがこうやって文筆業でも成功したポイントなんじゃないでしょうか。
 あと、蛇足ですが、この本は筋肉少女帯の曲からタイトルを取っているのですが(アルバム「レティクル座妄想」収録)、昔、わたしはとてもこの曲が好きでした。それが、ある時期を境になんかやだなあと思うようになった。してあげようって何様かね。だけどさらにしばらく時間がたったら、この曲の一生懸命の空回りさが、好き嫌いはあれど青春なのかなとまた思い直すようになりました。聞く時期によって評価が分かれる曲ってなんかいいなと思います。

 「オーケンのめくるめく脱力旅の世界」大槻ケンヂ(新潮文庫)



  大槻ケンヂが外国ロックミュージシャンを求めてひなびた温泉に行ったり、女の子とお別れするため熱海でスイカ割りしたり、特撮のツアーで博多に行ったり…という感じのエッセイ集。どこかに出かけるためのガイドにはまったくといっていいほど役には立たないけれど(有り得ない)、わざわざ行く必要もないくらいに、そのときのオーケンの気持ちは良く伝わってくる、そんな本です。あ、でも中国拳法そろいぶみは実際に見てみたいかもな。だってリアルの酔拳や蟷螂拳や蛇拳ですよ。障害者プロレスに関しては、オーケンの興奮はよく分かったけれど、わたしには向いてなさそうだということも同時に分かった。それはもう、好みだから。
 しかし、オーケンは恋愛話でほろりとさせるのが巧いねえ(嫌味な書きかたして申し訳ないが)。このひとの書く恋愛話の女の子たちは、なんだかみんな同じ顔をして同じようなことを云うなあと思ったんだけど、それが要するにオーケンの好みなんだろうな。スイカちゃんは、あまりにも出来すぎているけれど、こういう子もいるのであろう。きっと。
 どの箇所も平均以上に読ませるけれど、個人的にとくに面白かったのは「酔拳を見に栃木に行こう」「音楽雑誌が書かないロックバンドの日々」「心療内科に行って禁UFOを解いてもらおう」「モデル撮影会に潜入!?」かな。
 なかでも「音楽雑誌が?」は現在のかれのユニットである特撮誕生のいきさつを書いていて、特撮ファンのわたしに面白かった。あと、ロックバンドの営業って大変だよね、という気持ちがひしひしと伝わってきて…なんていうか、この歳になると、自分の好きだったひとが「あー昔だったら絶対こんなことしないだろーにな」的なことするのも目に入る。それは、本人もせつないかもしれないが、こっちもアレなんだ。生活とか分かってるけど、アレなんだよう。どんなかたちであれ、本人にとってはその名前で表現ができるだけいいのかもしれないけど。リアルノゾミのなくならない世界。そんなことを思い、意味なくせつなくなりました。

「花のような女」太田垣晴子(MF文庫・メディアファクトリー)



 太田垣晴子は、派手でないけど、しっかり描き込んでいる(それもうるさくない)イラストと、地に足がついた感じのエッセイという組み合わせが好きで、けっこう読んできたんだけど、なんかそろそろ首をかしげるというか、違和感というか。この本も、花をモチーフに様々なタイプの女性とその生き方を語るという内容になっているのですが、なんかそこかしこに見られる「オシャレで恋愛のことしか考えてなくて頭空っぽな(でも計算高い)外見頼りの若い女」より「一見ジミだけど男なんかに頼らず現実を見て自分と向き合う女」が良いよね!っていうのがいい加減、なんだかなーと。だって、それで後者の女が得るものとして挙げられるのも「素敵な一流商社の彼氏」とかいうんだもの。そういう女性にとっての人生の価値ってそういうものかな?なんか挙げられる例がいちいちステレオタイプだ。そもそもそういうことって、ひとそれぞれだからいーじゃん、とか思っちゃうのです。わたしは。作者自身も「いいんだけどね」と云いつつ、男に媚びる女性の行動をあれこれ拾っては挙げていくんだよね。
 これまでは、あんまりオンナオンナしてないとこが魅力だと思って読んできたんだけど、意外とやっぱりオンナでした、みたいな印象を受けました。それも、同性への視線がね。そうなると、今度はそのステレオタイプな表現が気になってしまった。女性は女性への悪口が好きだけど、それを嫌味なく読ませるには芸が必要なのではないかしら。
 ただ、この本、花のカラーイラストはやっぱり良いです。派手な花から地味な花、メジャーな花からイラスト見てもよく分からない花まで様々だけど、小さなカットひとつでも、ちょっと保存しておきたくなるような柔らかい色遣いと線が魅力的です。