Hold You Tight

 あたしの男がここにいる。あたしのすぐ横で、死んだように動かないまま眠っている。

 それがあまりにも静かで深い眠りだから、つい心配になって、不二子はその男の寝息に耳をすませる。手を滑らせて体温を確かめた。そして、そこから伝わるぬくもりに、自分の身体にも溶けるような温かさをともなった安心感が広がるのを感じる。

 まったく、ほんとうに心配させられたわ、悪いひと。不二子は声を出さずに心の中で話しかける。とうぜん、それに返事はない。不二子は微笑んで、その身体に寄り添って、自分も目を閉じた。

 そして、これまでのことを思い出す。もういちど心の中でささやいた。

 ……ねえ、次元。ほんとうに心配したのよ。

 

 

「だれも予想していなかった刺客だった。拙者はもちろん、ルパンも不意を突かれてしまってな。盲点とはまさにあのことだ」

 アジトで、その言葉を聞きながら、不二子は五ェ門の腕の傷に包帯を巻いている。つい数時間前、仕事に出かける三人の姿を見送ったときは、まさかこんなことになるとは想像もしていなかった。さっきまで五ェ門が着ていた着物に、不二子は視線をやった。大きく切り裂かれて無残なことになっている。五ェ門の俊敏さがなければ、着物だけではすまなかっただろう。

「拙者はさいわい、腕だけですんだが、ルパンはそこでやられた」

 不二子は、五ェ門に抱えられるようにしてアジトに戻ってきたときのルパンの姿を思い出す。さんざんに身体を包帯で巻かれ、足を引きずったその姿と、紙のように白い顔色を見て、不二子は思わず息を呑んだものだった。

「それでもたいしたものだ。あやつは獲物だけはあきらめないと言い張ってな」

 不二子は、苦しげな顔のまま、それでもにやりと笑って、ダイヤモンドの見事な首飾りをルパンが差し出したときのことを思い出す。いまは自分の首に飾られているそれを、確かめるように不二子は触った。

「しかし、そのせいで、敵を撒くのがさらに大変なことになった。なんとか逃げ出すことはできたが、時間がかかったせいで、ルパンが意識を失ってな。とりあえず一足先に逃げろと、拙者が、次元からルパンを託されたのだ」

 その名前を聞くと、不二子は包帯を締める手に思わず力を入れてしまった。五ェ門が痛みに顔をしかめる。

「次元は……?」

 どうしたの。どこにいるの。怪我はしてないの。矢継ぎ早に浮かんでくる自分の悲鳴のような疑問を、そのまま口にすることができないもどかしさが、不二子の心を支配する。どんな大怪我でも三日も寝ていればピンピンに元通りになるルパンや、どこか人間離れしたところのある五ェ門とちがって、あの男は普通の人間なのよ、と言いたくなる気持ちを不二子は必死に抑えた。

「拙者たちを逃がすために現場に残ったが、無事に脱出したという連絡はあった」

 不二子は安堵感に目が潤みそうになる。もっとも、そうでなければルパンもおとなしくアジトに戻ってはこないだろう。自分が失神していようが出血していようが、次元を救うために戻っていくだろう。だから、なにも心配はすることはないのだ。
 しかし、それが分かっていても、不二子はこみあげてくる胸の苦しさを感じずにはいられない。それをなんとか誤魔化そうと、あえて大げさにため息をついてみせる。いっそ探しに行こうかしらと思いながら。

「だったら、早く戻ってくればいいのにね」
「足が無いからな。どこかで車を拝借するのに時間がかかっているのかもしれん。ヒッチハイクをするわけにもいかんと言っていた」
「そんなへらずぐち叩いているあいだに、自分の足で走ればいいのよ」
「不二子」

 五ェ門の声が変わったことに不二子は気づく。これまでより低く、すこしだけ、気を遣ったような響きを感じて、不二子はあらためて、五ェ門を見た。

「次元を心配していること、べつに隠さなくともよい」

 その言葉に、不二子は思わず絶句してしまう。しかし、五ェ門はそれに気づいた様子はない。

「仲間のことを心配するのは、あたりまえのことだ。それに、次元は並大抵のことでやられるような男ではない。おぬしらしくないぞ」
「……そうね」

 次元と自分の関係を揶揄しての言葉かという考えが、不二子の頭を一瞬だけかすめたのだ。だが、この朴念仁に限ってそれはなかった。当り前だ。それなのに、五ェ門は、こうやって大事なことだけはしっかり見抜くのね。そう不二子は思いながら、あらためて五ェ門を見つめた。

 あたしと次元がデキちゃってるなんて、この男にとっては予想外すぎて、可能性が浮かびもしないことのはず。けれど、あたしがおかしくなりそうなほどに次元のことを心配していることを読みとることはできるくらいには敏い男というわけだ。そんな五ェ門が見つけた落としどころが、“仲間”という言葉だったのだろう。そこには何の裏も無い。純粋な、心配と気遣いの言葉だ。

 仲間。五ェ門にはそう見えている。ということは、五ェ門にとってはあたしも、自分や次元とおなじように、ルパンの仲間なんだわ、と不二子は思った。

「五ェ門……!」

 不二子はこみあげてくる感情のままに五ェ門に抱きついた。五ェ門の身体が数秒浮いたのではないかと思うほどビクついたのに気づいたが、あえて無視する。まるで兄か弟に甘えるように、こみあげてくる不安や恐れを沈めるために、だれかのしっかりとした胸が、いまは必要だったのだ。五ェ門は不二子の身体から数センチ離れたところで手を遊ばせている。触れるべきかどうかを迷っているのだろう。五ェ門らしいわ、と不二子が思ったときだった。

「邪魔したか」
 ドアが開く音と同時に響いた、聞きなれた声に不二子は振り向く。
「次元!」
 不二子は悲鳴のような声をあげる。おもわず駆け寄って抱きつきそうになったが、五ェ門の前ではそういうわけにもいかないのを思い出し、不二子は動きを止めた。一方、次元は疲れを隠さない表情で五ェ門と不二子を見て、言った。

「ルパンは」
「手当てを受けて、いまは部屋で休んでいる」
「見てくる」

 五ェ門の言葉に、次元はそれだけ言うと、ドアを閉める。不二子は弾かれたように立ち上がった。

 ルパンの部屋の前まで来て、不二子は立ち止まる。中からはなにも聞こえてこない。ルパンはぐっすり眠りこんでいるはずだ。おそらく、次元はその顔色だけを確認して、部屋を出てくるだろう。そのときに、自分はなにを言えばいいのか。あんがい元気そうじゃないのと笑おうか。怪我はなかったか脱いで確かめさせてと誘惑しようか。ルパンは身体を張ってダイヤをくれたわ、あなたからはなあに?とねだってみようか。

 いつもだったらそんな言葉が何十通りと浮かぶ。そしてそのなかから、その場にふさわしい言葉がいつでも見つかる。次元がそれにあきれようが笑おうが、それとも帽子を深くかぶって無視しようが、自分は気にしなかった。いつでも、自分は言いたいことを言うだけだ。

 なのに、ついさっきまでの、自分の心配と不安を思えば、そのどれもが口から出そうになかった。言葉じゃなくて、ただ抱きしめたいと不二子は思った。ふさわしい言葉など、そのあとで自然と見つかるはずだ。

 もしかしてドアの向こうで次元も眠ってしまったのではないかと思うくらいに長い時間が過ぎ去ったように、不二子には感じられた。しかし、実際には、ほんの数分のことだった。ドアが開き、次元が出てきた。不二子と目が合う。

「来い」

 次元はぶっきらぼうにそれだけ言うと、不二子の腕をつかんだ。

 

 

「ねえ、怪我してないの?大丈夫だった?」

 次元は不二子を連れたまま、自分の部屋に入った。不二子の問いかけには、うるさそうにかぶりをふって返事とする。すごく機嫌が悪いみたい、疲れてるのは分かるけど、と不二子は思う。

「きゃ……」

 不二子が驚いたことに、次元はそのまま不二子を自分のベッドに倒した。帽子の陰からのぞく目からは、なんの感情も読み取れない。怖いわ、と思ったそのときに、次元は不二子の身体の上にのしかかってきた。

「次元?」
「うるさい」

 それだけ言うと、次元は不二子の唇を奪った。歯が当たるのもためらわないような荒々しさで、不二子の唇を蹂躙しながら、次元は、不二子の服に手をかける。不二子はその突然のくちづけに困惑して、もがきながら、なんとか声を出す。

「ちょっと、待ってってば……!」

 しかし、次元は不二子の抗議は無視するように決めたようだった。不二子の服の糸が切れる音がする。まったくいつもの次元らしくない、その早急で強引な動きに、不二子はカッとなり、反射的に次元の顔を打った。

「いいかげんにしてよ、いや!」

 あたしはあれだけ心配していたっていうのに、なにをいきなり始めてるのよ、という怒りをこめた不二子の言葉が部屋に響くと、次元の動きは止まった。そして、不二子が拍子抜けするほどあっさりと、次元は不二子から身体を離した。そのまま、次元は部屋を出ていこうとする。

「待って」
 不二子は起き上がり、次元に駆け寄った。

「どこ行くの」
「決めてねえ」
「次元ったら」

 ぶっきらぼうなその様子に、それでも不二子はなにかを感じる。強引に次元の腕をひっぱり、あらためてベッドに座らせた。

「どうしたっていうの、らしくないわ」

 次元は不二子のほうを一瞬だけ見て、目をそらす。すぐに帽子のつばの陰に隠れたその瞳を見て、不二子はなにもいわずに、次元の頭から帽子を奪った。

「おい」
「ねえ」

 不二子は隠すものがなくなった次元の目を見つめる。そして、ふたたび次元を行かせまいと、その身体に手をしっかりと回して、言った。

「……あたし、すごく心配したのよ」

 しばらくは沈黙があった。やがて、次元の手が不二子の肩を抱く。そのまま不二子の髪に顔をうずめるようにして、次元が言った。

「……マジでヤバかった」

 相手の心音まで聞こえそうな静けさのなかでも、ようやく聞こえた次元の言葉を聞き漏らすまいと、不二子はじっと耳をすます。

「こんどこそ、死ぬかと思った。まあ、こうやって終わってみりゃ、おれは怪我らしい怪我もしてないのに、なんであんなにビビっちまったか不思議なくらいだがな」

 ルパンがやられたからでしょ。不二子は思うが、口には出さない。

「なんとかルパンは五ェ門にまかせたんだが、あいつらが無事に逃げたと思ったら、それでもう、気が抜けそうになってな。なんどもヤバくなった。とにかく生きて帰ると、それだけ、思って、それで……」

 次元の声が途切れる。不二子は待った。

「生きて帰ったら、すぐに、おまえを抱こうと決めてた」

 不二子は自分の口がぽかんと開くのを感じた。次元は不二子を抱きしめたままだ。顔を見られたくないのだ。

「なのに帰りついてみりゃ、おまえは五ェ門の腕のなかときた」
「相手を誰だと思ってるのよ。五ェ門よ」
「ルパンが手に入れた獲物をこれみよがしにつけやがって」
「ダイヤに罪はないわ」

 いつもよりよけいにぶっきらぼうになっている次元の言葉にひとつひとつ反論しながら、不二子は頭をずらして、あらためて次元を見つめる。不二子は次元のこういう声に覚えがある。照れているときの響きだ。

「まあ、さっきの一発で目が覚めた。考えてみりゃ、あいつらもいるってのに、なに考えてるんだって話だな、おれがどうかしてた」

 そこまで言って、ようやく次元は不二子を見る。視線が合った瞬間に、不二子は次元の唇に自分の唇を寄せた。

「おい」
「次元」

 不二子はそれだけを口にする。ほかに浮かぶ言葉が無い。言葉にならない。なんていえばいいの、この気持ちを。どう伝えればいいの、頭がおかしくなりそうなくらいに、嬉しいってことを。

「次元」

 さきほどのくちづけとは比べものにならないほどのやさしさと慎重さで、なんども唇を重ねながら、不二子は次元の名前を呼ぶ。

「なんだ。おれはここだぜ」
「馬鹿」

 次元の声に笑いが混じる。不二子も笑い、唇を合わせたまま、誘うように舌を滑らせる。そのとたん、身を引こうとした次元に、不二子は首を横に振って、さらに深いくちづけを求めた。

「……おまえ、いやって言ったじゃねえか」
「女のいやを本気にしちゃ駄目」
「さっきのはどう考えても本気だったろ」

 次元の言葉を聞き流して、不二子は次元の上着を脱がしにかかる。

「待て、ルパンがいる」
「ベッドから動ける状態じゃないわ。ああいうときのルパンの眠りの深さは知ってるでしょ」
「五ェ門が」
「部屋で休んでるわよ。手当も終わったし、ほっとくわ」

 不二子は、それでも、と迷いを隠さない次元を見つめた。一心に。言葉にならないのなら、見つめるしかないのだ。いっそ嘘泣きでもいいから涙が出ればいいのに、と不二子は思う。でも、自分としたことが、いまは嘘の涙も出せそうにない。きっと、この男のまえではいつも本気の涙しか浮かべないから、やりかたを忘れてしまったのだ。
しばし、ふたりは見つめあった。すると、不意に次元が立ちあがる。

「出るぞ」
「え」
「そんな顔してるおまえとヤったら、トランペットみたいな声を聞かされそうだ。寝てるルパンを起こしちゃ悪い」
「ちょっと!」

 一気に赤くなった顔を誤魔化すように、不二子は大声を上げる。次元は笑って言った。

「好きなホテル言えよ。スイートおごってやる」

 返事の代わりに、不二子は次元に抱きついた。

「フォーシーズンズもハイアットもペニンシュラもいらない。よけいな時間をかけたくない」

 そうささやいて、もういちどキスをして、不二子は言った。

「あなたの部屋に行きましょう」

 

 

 そのまま車に乗り込んで、次元のアパートメントにたどり着くまではあっという間だった。スピード違反もいいところね、と不二子が言うと、次元はこんなときに切符を切るおまわりがいたら、馬にいやっというほど蹴りあげてもらうさ、と言い捨てた。その言いざまがおかしくて、不二子はそのままくすくすと笑いつづけた。部屋に着き、ドアを開け、ともにベッドに倒れこんでも笑っているので、次元がとうとうあきれたように、おまえ酔ってるのかと言った。

 酔ってるとしたら、この恋に。ジェットコースターに乗ってるみたいに、上がったり下がったり、振り回されて落ちそうになって、もう二度と乗らないとなんども途中で思う。でも、そのてっぺんで見た一瞬の風景があまりに鮮やかで忘れられなくて息を呑む。そこからの道のりが、たまらなく気持ちよくて楽しくて、泣きそうに怖いのに、笑ってしまう。そして、このままいつまでもいつまでも降りたくないのと子供みたいに駄々をこねたくなる、あなたとの関係に。

 そこまで思って、不二子はもういちど笑った。すると涙があふれそうになる。泣き出すかわりに、次元を思いきり、抱きしめた。
 

 
 ……ふと気がつけば、ブラインド越しに射す陽射しが、そろそろ夕方になろうとしていることを不二子に教えた。ベッドのなかで相手の体温を思いきりむさぼったあとで、気を失うように眠ってしまったらしい。おそらく、次元もおなじようなものだったのだろう。そろそろ次元を起こして、食事にでも行こうと思う。それとも、もういちど抱きあってもいい。
そんなことをぼんやり考えながら、不二子は、ようやく落ち着いた気持ちでこの半日のことを思い出すことが出来た。ほんとうに、心配させられたんだから、と隣でまだ眠っている次元の頬にキスをしながら不二子は言う。

「ね、起きて」

 それに答えるように、眠たそうな声がその口から洩れるのを聞いて、不二子は微笑んだ。そしてふと、この男にずっと言いたかったのに、いまだ伝えていなかった言葉が自分のなかにあることに気づく。ようやく体を起こした次元に身を寄せて、こみあげてきた愛しさそのままに髪に手をやり、胸に抱いた。そして、ぎゅっと抱きしめながら、その耳元でささやいた。

 おかえりなさい、あたしのあなた。

 

 

 

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