菫の花の砂糖漬け

 遅いわ、と峰不二子は思う。

 そろそろ夜が明けようとしていた。不二子はその部屋のドアを開けると、とりあえずベッドに腰かけて、あたりを見回した。もともとあくまで仮住まいのアジト、その中で適当に選んだであろう一室だけあって、部屋の主の個性を感じさせるようなものは少ない。

 吸い殻が山盛りになった灰皿と、半分ほど空いたバーボンの瓶、何冊かの雑誌と読み古されたペーパーバックが、ここが、あの男、次元大介の寝室であることを不二子に示していた。

 不二子はため息をついて、そのままベッドに身体を倒した。枕に顔を寄せれば、煙草の匂いが鼻につく。やあね、匂いが髪に移っちゃうじゃないの。そう思っても、その匂いといま身体に触れているシーツの肌触りが、以前、自分が同じ匂いを感じながら時間を過ごしたときのことを思い出させて、とたんに、不二子は動けなくなる。そのまま目を閉じて、心の中でもういちど、つぶやいた。遅いわ。

……ねえ、早く帰ってきてよ、次元。

 

 

「なかなかのカワイコちゃんだろ?」

 ルパンはニヤつきながら、一枚の資料を不二子に差し出した。長い金髪の女性が、薄布一枚だけを羽織った姿で、口元に紫色のなにかを口に運んでいる絵だ。その視線は遠くを見て、どこか放心しているような、あるいは夢を見ているような、あいまいな表情をしていて、美しい。鉛筆画に荒く色を乗せただけのデッサンの域を越えないものだったが、不二子はそこに添えられたサインにすぐに気がついた。

「ユーゴ・マルタン。お宝じゃない」

 不二子は記憶を探る。マルタンといえば20世紀初頭に活躍し、フランス王立アカデミーでも高い評価を受けていたフランス人の画家だ。早逝したため作品数が少なく、死後、その評価と絵の値段がうなぎ上りになったことでも有名な画家だった。

「でも、マルタンといえば風景画よ。人物画なんてあり得るの?」
「さすが不二子ちゃん、よく知ってるねえ」

 ルパンは不二子にもう一枚の資料を渡す。新聞記事のコピーだ。

「たしかに、マルタンといえば、当時流行の印象派に背を向け、写実的な風景画を描き続けた画家だ。しかし、それはあくまでも作品として残すレベルのもの。マルタンも男だ。恋人におねだりされたら、デッサンの一枚くらいプレゼントするさ」

 ルパンの解説を聞きながら、不二子は新聞記事に目を走らせる。なるほど、どうやらマルタンには秘密の恋人がいて、この絵はその彼女を描いたものらしい。そして、彼女が死後に残したその一枚は、百年近くのときを越えて発見され、ある美術品のコレクターのものとなった。マルタンの恋人は菫の花の砂糖漬けが好きで、このデッサン画にもそれを口にする瞬間が描かれている。というわけで、お菓子のような甘い恋の逸話が添えられた、この世に一枚しかない伝説のお宝が生まれたのだ。
 ルパンが欲しがるのには十分な理由と言えた。しかし、と不二子はもういちどその絵の写真に視線を走らせる。

「……あたしにはピンとこないわね」

 まず第一に、普段は緻密な写実画で知られるマルタンがあくまでお遊びで描いたデッサンだけあって、全体のタッチの甘さが目についた。あたしって、芸術には厳しいオンナなのよね、と不二子は思う。なおかつ、宝石と違って、絵画の場合、幻の作品というものは手に入れた後の処理がいろいろとややこしい。

「こんなもの転売も面倒だし、手に入れたあと、どうするのよ」
「そりゃもう、おれのアジトに置いて、朝な夕なにキッスしちゃう!」

 確実に三日で飽きるだろうに、そんなことを言って笑うルパンを見て不二子は肩をすくめる。

「じゃ、あたしは今回はパスね。頑張ってちょうだい」
「あらまあ。こんなしどけない美女がお相手なのにな」

 ルパンは不二子が返した資料をじっくりとながめて言った。

「しどけない美女を見たければ鏡を見るわ」

 不二子の返事にルパンはごもっとも、とうなずいて資料を丸めた。話はそれで終わりだと不二子には分かった。不二子がそうであるように、ルパンもまた、自分の獲物については世俗的な価値や評価などよりも、自分のセンスにピンとくるかどうかを重視する人間だ。だからこそ、不二子の気まぐれも尊重するというところなのだろう。
それはそれとして、とルパンは不二子に笑いかける。

「お宝を持ってるコレクターは、フランスのトゥールーズに住んでいるんだ。適当なところに新しいアジトを見つけたから、仕事関係なしに不二子ちゃんも遊びに来てチョーダイよ」
「考えておくわ」

 

 

 

 そんなやりとりをしてから一か月ほどがたっていた。ルパンの新しいアジトは、トゥールーズからすこし離れたピレネー山脈の谷間にある貸し別荘だった。ルパンと次元はずいぶん前にそこに到着し、今回の仕事の準備にいそしんでいたらしい。

「いよう、不二子ちゃん。陣中見舞いにきてくれたなんて感激!」

 やってきた不二子を見て、ルパンはおおげさに笑って抱きつく。キスを求めたルパンの唇を手のひらで押しのけて、不二子も笑う。

「もう仕事の準備は終わったの?」
「終わったことを確認してから来たんだろ。手伝う気もねえくせによ」

 ぶっきらぼうにそんなことを言うのは次元だ。そしてそのまま、不二子を無視してルパンにあれこれと準備物の確認をしている。腕まくりをしたその姿を見て、相変わらずね、と不二子は思う。

 こと仕事となるとルパンは奇想天外なアイデアを出しそれを組み立て実行する。しかしそれには、次元のような男の実際的なサポートが必要不可欠なのだ。もちろん、なかには不二子が手伝えそうなこともあったのだろうが、不二子がそばにいるとルパンはやたらとふざけるだろうし、それを目にした次元がイライラして、おいルパン、その女と遊ぶのと仕事の準備、どっちが大事だ!と怒鳴る、そんな展開になるのは目に見えていた。

 そもそも、不二子は自分に報酬が確約されていないことを手伝うような慈善家ではない。ルパンたちが仕事の準備にいそしんでいる間、フランス南西部ならではの気候を楽しむ遠出をしたり、買い物に出かけたりして暇をつぶし、予告状が現地に届き、いよいよ仕事となったときをみはからってから不二子はアジトに顔を出すことにしたのだった。

「……現地は今夜のあなたたちの噂でもちきりよ。テレビ中継の話まであったのを、銭形警部が止めさせたって話」

 そろそろ夕暮れになろうとしていた。あらかたの準備が終わり、ルパンが身だしなみを整えるためにアジトに入ったすきに、不二子は車のそばで煙草をふかしている次元のそばに寄った。

「……そりゃ銭さんに感謝だな。テレビなんざあったら面倒が増える」
 次元は煙草をくわえたまま、素っ気なくそう言った。

「この仕事が終わったら、どうするの」
「ルパンはそのままパリに行くと言っている。美女を芸術の都に凱旋させるんだと」

 あなたは?と出かけた言葉を不二子は飲みこむ。それはもちろん、ルパンと共にパリに向かうつもりだろう。それが分かっていながら、ねえ、と不二子は心の中で語りかける。あたしたち、もうずいぶんふたりきりになってないんだけど。
 しかしもちろん、そんな不二子の内心に次元が気づいた様子もない。察しなさいよ、と思っても、そんなことをこの男に求めても無駄だった。だから不二子はわざとらしく腕を組み、あえて自分らしい戯言を言ってみる。

「今回のお宝を持ってるのは有名な美術品コレクターよね。ほかにもいろいろ持ってるんじゃない?なにかあたしにお土産をもってきてよ」
「なんだそれ」

 次元は煙草を地面に落とし、踏みつける。

「そういうことはルパンに言え」
「あなたから欲しいの」

 不二子は早口でそう言って、次元の反応をうかがった。その顔に驚きと戸惑いの表情が浮かんだのを見て、笑っていいのか怒っていいのか不二子が迷っているうちに、アジトからルパンが飛び出してきた。それを見て、次元はそのまま車に乗りこむ。ずるいわ、と不二子は思いながら、ルパンに別れのハグをした。

「気をつけてね、ルパン」
「幸運の女神さまからの、いってらっしゃいのチューが欲しいなあ」

 そんなことを言って唇を寄せてくるルパンの頬に軽くキスをして、不二子は車の中の次元を見るが、その表情は帽子に隠れてうかがうことが出来ない。

 じゃあね~!と軽いルパンの声に手を振って、不二子はルパンたちを見送った。遠ざかっていくその姿を見ているうちに、心の中に起こったさざ波のような感情を、自分でも持て余すように感じながら。

 

 ……そしていま、こうやってひとりあの男の帰りを待っているわけだ。不二子は次元のベッドに転がったまま考えてみる。不二子が次元と関係を持つようになってしばらくたつが、いまだ、ふたりのあいだには、偶然を装ったようなあいまいな逢引しか存在していない。定期的に会うという暗黙の了解もあるようでなく、抱きあったあとに、つぎはいつ、と語られることもない。自分はいまだ抱きあう以外のかたちで次元を知らないと不二子は思う。

 けれどそれ以上になにを知ればいいのだろう?それがいまの次元に関わることでない限り、あの男の過去には興味がない(とくに女のことなど知りたくもない)。いちばん関心がある次元のことといえば、それはもちろん、不二子のことをどう思っているかということになるのだが、それはなかなかはっきりとは分からないことだ。

 最初は、抱きあっていればそのことも分かる気がした。だからこそ、不二子は次元の腕の中になんども潜りこみにいったのだけど、その回数が重なるにつれ、不二子は気づくようになった。もしかしたら自分はその行為そのものよりも、そこから生まれるもうすこし違うものに惹かれるようになったのではないかということに。

 もちろん、行為自体も悪くないけど、とだれも見ていないにも関わらず、不二子はすました顔で思う。けれど、それと同じくらい、あるいはそれ以上に、自分を楽しませて酔わせるものがあの男との間に生まれつつあるのだ。

 それは、すべてが終わったあとで、自分の髪を撫でる次元のあの煙草の匂いのする手や、普段の喧嘩腰のやりとりとはまた違った、あいまいにふざけあうような他愛のない会話、余韻を分かち合いながら触れあう唇、それになにより、自分をしっかりと抱くあの胸に顔をうずめる感触だった。そんなごくささやかで、ありふれたもの。何の金銭的価値も快楽も産まないものが、いつしか自分にとって大事なものに育っていた。そこまで考えて、不二子はため息をついた。まったく、よりにもよって、あの次元大介相手にこんなことになってしまうなんて、と。

 だからこそ、たいして興味がない仕事にもかかわらず、それにかこつけて、不二子はこんなフランスの田舎くんだりまでやってきたのだ。しかし次元とは言葉すらほとんど交わすことが出来なかった。今回の仕事が終わったところで、このアジトに帰ってくるという確証もない。またあの感覚に浸ることが出来るのはいったいいつのことになるだろう。一週間後?一か月後?それ以上になりそうなら、落とし穴でも掘ってあの男をつかまえてやるわと思いながら、不二子は目を閉じた。いつのまにか慣れていた、あの男の煙草の匂いを感じながら。

 

 ……夢だわ、と不二子は思う。

 不二子は、だれかにとてもやさしく触れられていた。ていねいに確かめるようなその手の感触に、不二子は自分が夢を見ていることを確信する。夢のなかで夢を見ていることを自覚できることは珍しいことではない。そしてその夢で、自分のそばにいるのは次元だった。次元がやさしく不二子をその腕に抱いて、髪に口づけをしていた。

 ああ、いい夢だわ。不二子はまどろみながら思い、その身体に抱かれるままに身をゆだねた。目を閉じてあいまいなその温もりに酔った。目を開けたら夢から覚めてしまう。こんな素敵な夢はめったに見られない。なんでも盗む稀代の女泥棒も、夜の夢だけは盗めないのだから。だから、と不二子はうとうとと眠りに酔いつつ、唇をひらいて、ささやいた。

 ……好きよ、と。
 
 夢のなかなら自分のプライドや駆け引きからは自由だからだ。思ったままのことを口に出してみれば、それはまさに夢のなかで空を飛ぶような解放感を心にもたらしたので、不二子はその心地良さのままに、もういちど言う。好き。

 目を閉じて見る夢ならば相手の表情を見ずにすむ。驚く顔も戸惑う視線も目に入らない。もし、そんなものを見てしまえば、とたんに自分は目を覚ましてひとりきりのベッドにいることに気づくだろう。だからしっかりと目を閉じたままで、不二子は男の身体を抱きしめて、なんどでも繰り返した。好きよ、好き、大好きなの、あなたといっしょにいたいの……。

 自然と口からこぼれた言葉は意外なほどに自分の心に刺さってしまい、不二子は己の目頭が熱くなるのさえ感じてしまう。すると、その言葉がこぼれた自分の唇を、相手の唇が柔らかく覆った。その甘くやさしいキスに、不二子はもういちど思う。やっぱり夢だわ、でも、最高の夢ね。

 醒めたくないと心から思う。それ以上考えることも感じることも放棄して、ただより深い眠りの域にひきずられるままに落ちていこうと思う。けれど、そのまま意識が途切れる直前に、聞こえてきた言葉だけは、目が覚めても覚えていたいと思った。不二子にやさしくくちづけたその唇が、耳元でささやいた一言だけは忘れたくなかった。それはたしかにこう聞こえたのだ。

 ……おれも好きだ、と。

 

 

 窓から差し込む光はすでに午後のものになっていて、それが不二子を眠りから覚ました。不二子は隣に感じた違和感に、すぐに身体を起こし、思わず悲鳴をあげそうになる。すんでのところでそれを思いとどまったのは、いま自分のそばで横になっている男が次元だと気がついたからだ。

「ちょっと、いつのまに帰ってたの」

 手を伸ばして身体を揺すれば、次元もまた眠そうにしながら体を起こした。あくびをかみ殺している。

「夜明けだ」
「……ずいぶん遅かったのね」
「とっつあんが張り切っちまってな。まくのにえらく手間がかかってずいぶんあちこち動き回った」
「ルパンは?」
「画を持って、そのままパリ行きさ」

 次元はさっそく煙草に火をつけ、深く吸っている。

「だが、おれはどうにも眠くてな。面倒になったから、あとで合流にさせてくれと一抜けした。いろいろあと片付けもあったしな」

 そこまで言うと、次元は不二子を見た。

「おまえもまだここにいたんだな」
「あなたたちの首尾を見届けようと思ってたのよ。なのに、あんまり遅いんだもの」

 不二子はいまさらのように寝乱れた髪が気になって手櫛を使う。着ていたワンピースもきっとしわになっているだろう。みっともないったらありゃしないわ、と落ち着かない気分になって次元を見るが、気にした様子もなく煙草をふかしている。こちらもシャツはしわくちゃになっているし、髪にもくせがついている。本気で眠ったのだろう。よっぽど疲れていたのね、と思う。ルパンを行かせて自分はここに留まるなんて。
すると、そんなことを考えていた不二子の目の前に、いきなり包みが投げられた。

「土産だ」

 小さな紙包みだった。あっけないほど軽い。広げたとたんに、甘い香りが広がった。

「これ……」

 それはちいさな紫色の結晶のように見える固まりだった。ひとつ手にとれば不二子にもすぐその正体が知れた。菫だ。菫の花の砂糖漬けだった。

「トゥールーズの名物だ。仕事前に寄った店でついでに買った。コレクターの屋敷じゃほかのものに手を出す余裕がないのは見えてたしな」

 次元の口調はどこか早口で素っ気ない。しかし、不二子が黙ったままでいると、その沈黙をどうとったのか、気まり悪げな響きで、言葉が続いた。

「……女は甘いものが好きだと思ったんだが」
「好きよ」

 不二子が黙っていたのは、仕事前の自分の戯言をこの男が覚えていたという事実に、すぐに反応することが出来なかったからだった。しかし、美術品コレクターの屋敷からのお土産のはずが、目の前にあるのは一山いくらの砂糖漬けのお菓子だ。皮肉を言ってもいいし、からかっても良かった。しかし、それを目にしたとたん、自分の心に広がった素直な温かさに不二子は戸惑って言葉を失ったのだ。

 いまの不二子の目には、そのちいさな紫色のお菓子が、まるで砕いたダイヤをちりばめた最上級のバイオレットサファイヤに負けないほど、美しく見える。そんな気持ちを、的確に表現できる言葉を不二子は知らない。

 なにより、不二子はふと思い当たる。次元はこのアジトにひとりで戻ってきた。もちろん疲れていたのは事実だろうが、なにもアジトに帰ってこずとも、車の運転はルパンに任せて自分は後部座席で寝ていればよかった話ではないだろうか。そう思った瞬間に、不二子の胸は勝手に高鳴った。

 思い上がりかしら?この男が、あたしへのプレゼントを懐に、あたしに逢うためにあえてひとり、ここにやってきたのだと思うことは。それはとんでもない勘違いかしら?そこで不二子はあの夢の記憶が脳裏に浮かぶのを感じる。ねえ、あれはどこまで夢でどこまでが現実だったの。もしかしてあれは夢ではなくて、すべてほんとうに起きたことで、あたしはあのとき、うとうとしながらもこの男に好きよとささやき、この男もまた好きだと返してくれたのかしら。だとしたら。

 そこまで考えると不二子はさすがに顔が赤くなるのを感じ、それを誤魔化そうと砂糖漬けが包まれた紙をのぞき込んだ。すると、そこに紙が添えられていることに気づいた。どうやら菓子屋の添え書きらしい。
それを読み、不二子は微笑んでしまう。

「……あなたのことで頭がいっぱい」
「なんだって」

 次元が驚いた声を出すので、不二子は紙片をひらひらとさせてみせる。

「菫の花言葉よ」

 次元はなんと言っていいか分からない様子で顎鬚をかいている。その様子がなんとなくおかしくて、不二子は笑い、紙包みをもったまま、その胸に身を寄せた。続けて読んでみれば、それ以外にも、誠実、小さな幸せ、とある。ぴったりだわ、と不二子は思った。

 やがて次元が、甘える不二子に応えるように不二子の背中を抱いた。その温かさを感じながら、不二子は菫の砂糖漬けをひとつつまむと、唇に運んだ。シャリ、と砂糖が口の中で溶ける甘さと同時に、かすかな菫の香りが広がった。それはまるで、あの夢の中のキスと変わりがない甘さとやさしさのように、不二子には思えた。

 

 

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