水の名前

 許されないことをしていると、思った。

 許さないのは他のだれでもない、峰不二子という名前の自分自身だ。とてもではないが許されない、そんなことをしていると思った。それは恋だ。恋そのものが許されないのではない。いま、自分が落ちている恋が問題だった。それはとてもみっともない、我を忘れてしまうような恋だったから。

 いつだって、恋に落ちるのは自分ではなかった。だれかが自分に恋すること、それが、あたしにとっての恋だったのに、と不二子は思う。なのに、いま感じているこれは違った。そしてその違いが自分にもたらすものは、めまいにも似た喜びと確かなときめきで、だからこそ、よけいに始末に負えなかった。

 追手から逃げてともに駆けこんだ古いアジトのベッドは、大人ふたりには狭すぎた。それでも、おれはソファで寝る、と言った男の手を引いて、不二子はその狭いベッドにともに潜った。どんなときでも、広すぎるベッドをひとりで独占して、男などベッドどころか寝室のドアの前に座らせて一夜を過ごさせるのが自分ではなかったか。そう思いながらも、神様がわずかな隙を見て届けてくれたとしか考えられない、この男と過ごす一夜をそのまま見送ることなど、不二子にはとてもできなかった。

 好きよ、と口にしてしまえば、その声は抱きあった吐息の中に溶けてしまう。離さないで、と伸ばした指は強く握られて終わってしまう。甘いようでじつは確かな答えではない、相手のそんな仕草は、ふと目を覚ましたときに思い出すと、不二子をどうしようもなくやるせない、濁った沼に沈めてしまうのだ。ちょうどいまのように。

 いま、自分は起きていて、男は眠っている。次元。不二子は声に出さずに男の名前を呼ぶ。ねえ、次元。もちろん返事はない。それには慣れている。あたしはたいていのことは怖くないけれど、ただ声に出してこの男の名前を呼ぶ、それだけのことが怖いときがある。そう思いながら、不二子は次元の背中に頬を寄せた。

 この男は、今日もあたしを助けてくれた。ここにたどりつくまでに、どれだけの弾を使い、自分を守ってくれただろう。それでも、どうしておれのいる方向に逃げてくるんだ!と怒鳴ってはいたけれど。それは照れ隠しだったかもしれないし、あんがい本気だったかもしれない。しかし、不二子の本能は次元の腕をつかむことを選んだ。そうすれば、この男は舌打ちしながらも自分を守ってくれると知っていた。いつでもそうだ。次元大介はあたしにやさしい。

 けれど、きっと抱きあうようになる前から、次元は自分にやさしかったのだ。次元のことをより深く知るようになって、不二子はそのことに気づいた。表面的には不二子のことを嫌っているように見せても、いざ不二子の命が危険にさらされたなら、次元はいつでもためらわずに自分を助けてくれただろう。そして不二子も当たり前のようにそれを受け取ってきた。その価値に気づかないままに、そのやさしさを味わい、自分のものにしてきたのだ。

 そう思えば、次元のやさしさは、まるで自然な湧水のようにいつでもそこにあるものだった。それは不思議な水だった。不二子を潤わせて、幸福な気持ちにさせるのに、やがて不二子の頬を濡らす涙というかたちに変わるのだ。それは、この恋に落ちてから、頻繁に不二子からあふれる水だった。喜びであれ、悲しみであれ、同じようにいくらでもあふれてしまうのだ。そういえば、おまえ、よく泣く女だったんだな、といつか次元に言われたことがある。不二子はそんなことを思い出した。

 自分はどんなときに泣くのだろう。不二子は考えてみる。たとえばこれがルパンをはじめとするほかの男相手なら、気を引くためのお芝居や、自分がやらかしたとんでもない裏切りをそつなく誤魔化すために、両の瞳に涙を浮かべることなど不二子にとっては日常茶飯事だ。いちいちカウントするようなことではない。女の涙はなによりの武器だ。なにしろ、一糸まとわない生まれたままの姿でも、男の心をひねり潰してやることができるのだから。

 けれど、その武器は次元にはきかない。正確には、武器として使うことが出来ない。なぜなら次元は不二子の涙が嘘であってもほんとうの涙であっても、区別をつけない。ただ、面倒そうに目をそらしたあとで抱きしめて、目尻の涙をぬぐってくれるからだ。そうなると不二子の身体からは力が抜けて、武器として使おうとしたその理由を忘れてしまう。だから、不二子は次元を騙せない。

 そう、不二子は次元を騙せるようで、騙せない。どんな男でも操ることが出来る峰不二子が、この男だけは操れない。なぜなら次元は最初から不二子を信じていないからだ。最初から自分を信じていない男は、騙すことも不可能だ。そして不二子は、その事実にたびたび、うちのめされるような気持ちになる。ひどいわ、と思う。たとえ次元のための落とし穴を掘っている最中でさえも、どうしてあたしを信じてくれないのよ、と思うのが不二子という女だった。

 しかし自分を偽ることは出来ない。自分はどこまでもそういう女で、そういう女が、ああいう男を欲しくなっただけの話だ。そう、自分は次元が欲しいのだ。不二子はいつでも、ほんとうに欲するものにしか用はない女だった。だれも、あの男、次元大介のかわりにはならないのだと思ってしまえば、ほかの男のことなど、もう、どうでもよくなってしまった。あのルパン三世ですら。

 まだ次元の唇を知る前に、ルパンのものになってもいいかもしれないという考えが頭をかすめたこともあったことを、不二子は思い出す。ほんとうにはるか昔のこと、ルパンとも、まだたがいに知ったようで知っていなかった頃だ。

 ルパンはもちろん最高の男で、この世にふたつとないお宝だった。けれど、手に入れたとたんにその輝きが褪せてしまうようなお宝でもあった。そして、ムカつくことにルパンもまた不二子のことをそう思っているフシがあった。まあ、それもしかたがない、と不二子は肩をすくめたい気持ちになったものだ。なぜならそれは世の理だから。

 いつだって、遠足がいちばん楽しいのは前の夜、唇が触れあう寸前のときめきに、キスそのものはかなわないのだ。その真理を知っている自分たちは、あえて言葉にしないまま、いつまでも続くそのぎりぎりの関係そのものを楽しむことに同意した、ということなのだろう。

 そもそも、ルパンのものになるってどういうことかしらね、と不二子はそのころ思ったものだ。ベッドを共にしたら?だから何だというの、としか不二子は思わない。結婚したら?たしかにルパンはいつでもプロポーズを口にするロマンティストではあったけれど、そもそもまともな国籍や法律上の身分があるかどうかも怪しい男と女がどうやって正式な結婚とやらをするのだろう。もちろん、宗教どころか神さまだって信じているわけもない自分たちにとって、教会で式を挙げたところでまったくの無意味だった。では、おたがいに相手だけ、と貞操を誓いあうこと?あたしとルパンに息をするなっていうの?と不二子は思う。ルパンもこれには賛成だろう。

 それでも長いつきあいのうちに、いつしか不二子はルパンの恋人という位置になんとなく収まっていた。不二子もまた、利用できるときはそれを使い、面倒なときはそれを否定し、その関係を便利に使うようになっていたのだ。それをとやかくいうほど、ルパンがケチな男ではないのも幸いしたし、ルパンもまた不二子のことを利用していたともいえる。だからあたしはルパンだけのものにはならない。ルパンもあたしだけのものにはならない。あたしたちはおたがいさま。不二子はいつでもそう思っていた。自分とルパンは、いつでも見えない手錠でつながっているような、素敵な共犯者だった。けれども。いまや不二子は笑ってしまうのだ。いささか呆れたような気持ちで。

 いまならわかる。だれかのものになるということは、その相手がいないと生きていけないということなのだ。もしその相手が目の前から消えたなら、どうやって呼吸をしたらいいのかも分からなくなる、そんな人間と出会うことなのだ。

 ねえ、あたしに息をさせて、次元。あたしはいつも窒息してしまいそうになるの。

 窓から外を見ると、ゆっくりと夜が明け始めていた。その白い色を見て、不二子は思う。あたしだけのものが欲しいわ。だれにでもやさしい次元にも、特別ななにかがあるのなら、あたしはそれが欲しい。ふだんはそんなことを思わない。そんな気持ちが浮かぶのは、きまってこういうときだ。ふたりきりでいるのに、遠くに感じるとき。次元があたしを見ていないとき。こうやって眠っているあなたといられるだけでも特別なことなのだと分かってはいるけれど、と不二子は次元の唇に指を滑らせる。すると、うるさそうに唸る声が漏れて、不二子を笑わせた。

 ひとを好きになるのは簡単なことで、憎むことはもっとたやすい。忘れることもよくあることで、嫌うことも難しいことではない。なのに、恋に落ちることに限っては、どうしてこんなに難しいのだろう。正確には、恋するこの気持ちをなだめることが難しい。なだめなくては、自分は悲鳴をあげてしまいそうになる。なんでも盗める女泥棒のあたし、なによりも得意なのは男の心を盗むことだったのに、この男の心だけは盗めない。その事実をつきつけられるたびに、不二子の胸は苦しくなる。
 
 よく、恋に焦がれるとか言うけれど、ほんとうに焦げるのだ。心臓が焼けつくような痛みと不穏な匂いがたちこめてくるのだ。そこまで思っても、どうしても手に入れられないものがある。この男は、ほんとうに大事なものを、だれにも触れられない胸の奥に沈めているからだ。いつか見たことがある、湖の底に眠る遺跡のように。

 それはいったいなんだろう。捨ててきた過去か、思い出したくない記憶か、忘れたことにしている夢かもしれない。そう思って探ってみれば、自分の心にだってきっとそんなものは眠っている。それを他人に探られるなんて、悪趣味としか思えない。いや、ほんとうに欲しいものはそれではない。自分はただ、次元を感じていたいだけなのだ。なにもかもどこまでも。あたしは次元をいつでも確かめていたい。不二子は思う。なぜなら。息を深く吸う。なせなら、だってあたしは、いつか。

 いつか、息絶えたこの男の身体を抱くかもしれないのだもの。

 そんなことを思うだけで、自分の睫毛が重く濡れていくのを感じて、不二子は驚いてしまう。どこにもそんな危険はないどころか、そんな危険を軽くすり抜けてきて、ほらやっぱり自分たちには敵などないと笑ったあとに限って、こんな気持ちが押し寄せてきてしまうのだ。そんな感傷のおもむくままに眠っている次元の身体に顔をすり寄せれば、次元は目を覚まさないまま、なにかを見通したようにその指で不二子の髪に触れる。そのやさしさが、さらに不二子を涙ぐませる。

 たどり着く場所はどこにもない自分たちの、行きつく先はどこだろう。そんな始まりも終わりもない問いが胸に迫るのは、朝焼けの色があまりに白くて苦しいからだ。こんな時間にふたりきりでいるのが、不吉なほど美しいからだ。いつでも喧噪のなかを猛スピードで駆け抜ける生きかたをしているからこそ、ふと立ち止まったときにそれまで見ないでおいたことが押し寄せる。

 遊びのふりをすることも出来ない不器用さで、男にしがみつくことを愚かだとばかり思っていたけれど、実際にそうなってみてはじめて不二子は知った。なにもかも捨てて恋する男の胸に飛び込む爽快感を。それはまるでこどものころ、はじめて水に飛び込んだときのような恐れと気持ちよさで不二子を包んだのだ。そしてこの男はそのなかでも不二子が溺れないように抱きとめてくれる。ああ、これも水だと不二子は思う。やさしく冷たく自分を包みこむ水だ。次元のやさしさだ。

 自分のずるさ、相手のずるさ、天秤にかけてしまえばいい勝負かもしれないが、よけいな計算がない分、相手の方が一枚上手だった。そして、本気でなければ自分の手をけして握らなかっただろうこの男の気持ちが分かっているのに、自分はこれ以上なにを確かめたいのだろう。そんな風に迷いながら、不二子はそっと次元の身体を探って、身体に残る傷跡のひとつひとつを指で撫でてみる。すると、くすぐったそうに次元が身をよじる。指ではなく、唇を寄せると、とうとう次元は目を覚まして、両の手のひらで、不二子の頬を包みこむと、やさしく、くちづけをした。

 やがて離れた唇が、うるせえ、寝かせろ、と言ったのを聞いて、不二子は吹き出してしまう。いやよ、とささやいて、くちづけをさらに深いものにした。

 わがままな女だと思っていることを、ひそめた眉だけで伝えると、次元は不二子に背中を向けて露骨に毛布をかぶり直す。その毛布を引っ張ってやれば、あきらかにもうはっきり目が覚めていることがわかる強さで毛布がさらに引かれる。まるで子供同士のようなそんなやりあいを、不二子は次元の背中にしがみつくことで終わらせる。そして、しがみついたその手を次元が握り、身体が不二子に向けられて、不二子を自分の胸に抱きよせた。触れあう肌から伝わる相手の体温に、不二子は思う。

 この温かさが続くうちは、あたしはこの男から離れないし、この温かさが消えたなら、あたしも生きてはいないわ、と。

 そんな不穏な誓いは、とうぜん次元には伝わるはずがない。なのに、次元は乱暴に不二子の髪を撫でた。らしくねえぜ、とその手は言っているようだった。そう、こんな恋はちっともこの峰不二子らしくない。許されない。なのに、気持ちよくて幸せで楽しくて、苦しくてせつなくて怖くてたまらない。だからこそ、やめられない。相反するそんな感情の群れに引き裂かれるようなこの気持ちこそが、恋の正体だと不二子は思った。

 なにひとつ自分の自由にならない思いに翻弄されることがもたらす、その気持ちがたどり着くのはきっと、シンプルな結論だった。

 不二子は、ため息とともに声に出さずにただ、その言葉を思い浮かべる。終わらないことを願い、永遠を誓う。すると、まるで返事のように、次元からのやさしいくちづけがもういちど、不二子の唇に触れる。そのやさしさが、自分の身体にしみわたっていくのを不二子は目を閉じて受け止めた。まるで乾いた土に水がしみこんでいくように。

 

 

 

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