黒い猫

 いい仲の男と女が過ごすひさしぶりの夜に必要なものは、いったいなんだろう?

 峰不二子の頭に浮かんだのは、すこしのお酒と甘い言葉、だった。とりあえず、お酒はあたしが持ってるわ、と不二子は思う。あと、甘い言葉をあの男が用意してくれたらいいけれど、それは望み薄ね、とも。

 風のない夜だった。蒸すというほどでもないが、熱を帯びたどこか湿っぽい空気が初夏の訪れを知らせているような、そんな夜だ。こんな都会でも青い葉を茂らせている街路樹の先に、白い蕾が見え隠れしているのが不二子の目に入った。あとすこしで夏が来れば、それが開いて甘い香りを広げるのだろう。

 大きな仕事がひとつ終わったあとの夜だった。ルパンも五ェ門もそれぞれ気ままにどこかに姿を消している。こんな時期に、あの男、次元大介がひとりでアジトにいる理由はない。おそらく、自分のアパートメントにいるはずだ、と不二子は踏んでいた。こういうときでないと、なかなかあの男はつかまらない。けれど、こういうときならば、しばらくふたりで過ごせるはずだった。

 というわけで、不二子はいまひとり、次元のアパートメントに向かっていた。手元のバッグには酒の瓶が一本入っている。あなたが好きそうなお酒が手に入ったのよ、と言い訳するために選んだバーボンだった。

「次元、いるの?」

 合鍵を使ってドアを開けると、開けっ放しの窓から、わずかに風が吹き込んできて、カーテンが揺れた。そしてそのすぐそばのソファに、目的の男は寝転んでいた。顔の上に、読みかけと思しき雑誌が開かれて乗せられている。
あきれた、と声をかけようとして、不二子は気づいた。雑誌以外に、次元の身体の上に乗っているものがある。
今夜の次元は上着を脱いでソファの上に寝転がっていたが、その胸のあたりに黒い塊があるのだ。帽子ではないとすぐにわかり、一瞬、ひるんだ不二子だったが、そっと近づいてみれば、その正体はすぐに知れた。

 猫だ。痩せて骨ばった黒い猫が、次元の胸の上に乗って丸くなっている。

 不二子はその猫をいぶかしげに見ながらも、次元の顔の上の雑誌を取る。すると、次元はまぶしそうに目をしばたたかせた。

「なんだ、おまえか」
「あたしよ」

 あたしと分かってなかったらとっくの昔に飛び起きてマグナムを抜いているでしょ、と思いながら不二子は床に膝をつき、寝転がったままの次元の肩に頭を寄せてみる。次元もよけずに、不二子の髪に手をやった。すると、次元が動いたためだろう、胸の上にいた猫が、うっとおしそうに身を起こした。

「……あなた、猫なんか飼い始めたの」
「知らねえ。どっかから勝手に入ってきたんだろう」

 素っ気なく言うわりには、次元は猫を身体から払い落とすこともせず、手を伸ばして軽くその身体に触れている。すると、猫は次元の手に顔をすりよせた。なんだか図々しいわね、と不二子は思う。
しかし、そんな不二子の思いを知るはずもない目の前の猫は、不二子には視線を向けようともせず、ふたたび、次元の上で丸くなった。その無頓着さが不二子をイラつかせる。

「ちょっと、そこはあたしの場所よ」

 不二子は猫の襟首をつかもうとしたが、一足早く猫は不二子の手をすり抜け、音もなく床に降りた。そのまま、窓枠に飛び乗る。

「帰るか、黒いの」

 次元が声をかけると、猫は一瞬、次元の方に目をやって、ぎぃ……と濁った声で鳴いてから、窓の外に姿を消した。不二子がそれを見送っていると、次元は身を起こし、不二子に向かい手を差し伸べた。

「なによ」
「場所が空いたぜ」

 気取って言うその声を聞き流し、不二子は立ち上がって窓を閉めた。

「おい」
「とりあえずシャツを脱いで。猫の毛がついてる場所なんてごめんだわ」

 まあ、どっちにしてもシャツは脱いでもらうつもりだったけど、と思いながら不二子はすまして言った。

 

 

 それがいちばん最初だった。それから、不二子はその黒い猫が次元のアパートメントにいるところをしばしば目撃するようになった。最初に目にしたときのように、次元の胸の上で丸くなっていることもあれば、足元でだらりと身体を伸ばしていることもある。次元が夕食の残りのチキンなどを投げてやれば、おとなしく食べて、気がついたらいなくなっている。

 野良猫なのは間違いない。都会に暮らす猫らしく、痩せこけていて身体も子猫並みに小さい。黒い毛並みもどこか不揃いでみすぼらしかった。なにもかも黒いなかで金色の瞳だけは金貨のようにきらめいてはいたが、お世辞にも美しいと言えるような猫ではなかった。

 そもそも不二子は猫より犬が好きだ。もちろん責任をもって生き物を飼うなどという手間のかかることはごめんだが、プードルのような愛玩犬を適当に可愛がったり、大型犬を従えるのは楽しいことだった。なにより、犬という生き物が生まれながらに持ち合わせている、あの人間に対するまっすぐな信頼と愛情、疑うことを知らずに揺らして見せる尻尾の動きは、そこらの人間の男の仕草よりもずっと可愛らしく、不二子の心を和ませた。

 それにひきかえ、猫は、不二子の好みから言えば、あまりに気まますぎる生き物だった。それがペットショップで出会う高級な猫であっても道ですれ違う野良猫であっても、不二子は猫と視線を合わせるといつも、この生き物は、あたしより自分の方が偉いと信じてるのね、と思ってしまうのだ。そんな動物を不二子が気に入るはずはなかった。

 しかし、どうやら次元の意見は違うようだった。アパートメントの中を我が物顔でうろついている猫を見ても、次元が邪険にすることはない。最近、部屋の窓がいつも開いているのは、そこから猫が出入りするためだ。もちろん、ことさらに可愛がっているわけでもないが、ときに片手で猫を抱き、よう黒いの、と喉などを撫でている。しかし、そんなときでも、この猫は可愛らしい鳴き声をあげなかった。そのかわりに、わずかにグル、と喉を鳴らした。そして自分が飽きると、するりと次元の腕から離れる。そういう猫だ。
 

 
 あの夜もそうだった。不二子が部屋に足を踏み入れたとき、次元は、ルパンから届けられたらしい資料をめくっていた。その足元で、あの猫が身体を伸ばして寝ていることに不二子は気づく。

「こんどのヤマはずいぶんおおがかりだな、ポルトガルからスペインを突っ切ってフランスか」
「戦争中、ナチの収奪を恐れたコレクターがひそかに隠し持っていた大量の絵画が見つかったのよ。それが鑑定のためにルーブルに運ばれるらしいの。ダ・ヴィンチ、ゴッホ、ミケランジェロ……そのなかにルパンのお目当てがあるわ」

 そしてあたしのお目当てもね、と不二子は思う。しかし、もしホンモノならば天文学的な金額になるのは間違いないお宝が待っているというのに、不二子の心はいまひとつときめいていなかった。

 それは目の前の男のせいだ、と不二子は思う。新しい仕事が始まってしまえば、またしばらくふたりきりになることが出来ない。仕事の流れ次第では、それが数週間にも何カ月にもなることがある。だから仕事の話が来たからには、残り少ない時間を大事にするべきなのに。この男ときたら、そんなことに気づいている様子はちっともないのだ。

「準備に手間暇かかりそうだな。早めに取り掛かるか」

 次元はそんなことを言って、いつまでも資料をめくっている。不二子がその横に座るべきかすこし迷ったときだった。次元の足元で寝ていた猫がふと立ち上がり、次元の膝にあがった。そのまま身体をこすりつけて甘える。すると、次元は資料を手にしたまま、その顎に手をやった。

「いい子だ」

 次元がなにげない調子でそう言ったのを聞くのと、不二子が無意識のまま行動に出たのはほぼ同時だった。不二子はまっすぐに次元のもとに歩み寄ると、手を伸ばし、猫の身体をつかんだ。猫は嫌がって、あおん、と鳴き、次元のシャツに爪をたててしがみつく。いてえ、と次元が声をあげたが、不二子がかまわずさらにひっぱると、シャツの糸が猫の爪にひっかかり、切れる音がした。ようやく次元から離れた猫は身を大きくよじり、不二子の手からも逃げ出して、一目散に窓から外に飛び出していく。
 逃げ足の早いこと、と不二子は猫の消えた方向をにらんだ。

「……おまえ、なにやってんだ」

 糸が飛び出た自分のシャツを点検しながらの次元の言葉に、不二子は我に返る。あわてて、つん、とすました顔を作って見せた。

「ここに泥棒猫はあたしひとりで十分よ」
 次元は露骨にあきれた顔になる。
「おい、あいつは本物の猫だぜ」
 次元の当然の言葉に、不二子はかっとなってしまう。
「なによ、猫でも犬でも猿でも恐竜でも関係ないわ!」

 そこまで不二子が一気に言うと、次元はあっけにとられたように不二子を見ている。さすがに目が合わせられない思いになり、不二子は自分もまた玄関に向かってしまう。

「帰るわ」

 ……ほんとうに、なにをやっているのよ、と自分でも思いながら。

 

 

 

 もういちど、次元のアパートメントに向かう勇気が不二子のなかに浮かぶまでは、それからさらに数日の時間が必要だった。もちろん次元からはなんの連絡もない。野良猫一匹にイラついて男のところを飛び出す女にかける言葉など、次元には浮かばないのだろう。単にあきれているのかもしれない。しかし、とうとう仕事のためにこの国を出る日が決まってしまった。不二子としても、あんなやりとりのあとで次元と顔を合わせるのが、ルパンたちもいるアジトという事態は避けたかった。

 次元のアパートメントに向かう道を歩きながら、不二子はため息をつく。ようするに自分は嫉妬してしまったのだ。よりにもよって、あんなみすぼらしい猫に。だって、しょうがないわ、と不二子は思う。次元の部屋に出入りできるのはあたしだけ、なにより、あの胸に甘えていいのはあたしだけなのよ。ずっとそう思っていたんだから。

 ふと、不二子の頭に、あの猫が、いとも簡単に次元の胸に抱かれたときの様子が浮かぶ。すると、とたんに、ねえ、あたしがためらいなくあの胸に甘えることが出来るようになるまで、どれだけ時間をかけたか分かってるの、という思いが生まれる。そして、猫相手にそんなことを思う自分のどうしようもなさに嫌気がさしてしまうのだ。

 不二子がそんなことを思いつつ、次元のアパートメント近くまで来たときだった。不二子は、なにかを目にして、足が止まってしまう。その原因にはすぐに気がついた。道路の脇に黒い毛皮の固まりが見えたのだった。動いていない。潰れてひからびたようなその様子に、急に鼓動が早くなり、不二子はそれから目をそらす。車の多いこの通りで、猫がはねられることは珍しいことではない。まさか、と思ったが、はっきりと確かめる勇気はなかった。

 不二子がアパートメントのドアを開けると、次元はスーツケースを開いて荷造りをしている最中だった。

「よう」

 次元は不二子を見ても、それだけ言って、あとはシャツなどを畳んでいる。まったくいつもと変わらぬその様子を確認してから、不二子は部屋の中を見回す。

「……猫は」
「あれからずっと来ていない」

 次元はそう答えると、ケースを閉めて、ソファに腰をかけ、煙草に火をつけた。不二子はついさっき道路の隅に見かけた黒い塊を思い出し、言葉を無くす。

「来たときもきまぐれだった。いなくなるときもそうだろうよ」

 不二子はなにも言えないまま、次元の隣に腰をかける。すると、次元は煙草を置いて、不二子の頭を撫でた。猫と同じ扱いね、と不二子は思うが、そのまま猫と同じように、次元の胸に顔を押しつけた。この温かさをあの猫も心地良いと思っていたのだろうか。そう思うと、はじめて、あの猫を懐かしむ気持ちが不二子の胸に浮かんだ。不二子のそんな気持ちを察したかのように、次元は口を開いた。

「……なあ、おれには生き物を飼う趣味はねえし、あの黒いのだってべつに飼ってるつもりはなかった。ただ、いつのまにかここにいたんだ」
「分かってるわ」

 あなたは猫に勝手にさせてただけで、あたしが馬鹿みたいなヤキモチを妬いただけよ、と不二子は内心でつぶやく。いつも思う。この気持ちをそのまますぐに口に出せたなら、自分はずいぶん楽になるはずなのに、あたしのプライドはそうさせない。しかし、次元はそんな不二子の思いに気づいた様子もなく、不二子の頭を抱いたまま、言葉を続けた。

「猫といっしょにするのもあれだが、まあ、これまでにそんな風にだれかと一緒にいたことがないわけじゃない……。だから、いきなりそれがいなくなるとか、そういうことには慣れているんだ」

 おそらくまったく他意もなく言ったであろうその言葉が、不二子の頭で大きく揺れた。次元と出会い、ともに時間を過ごし、どんなかたちであれ、いつか離れていっただれか。その中にはとうぜん女もいただろう。しかし、その思いは不思議と不二子に嫉妬をもたらさなかった。ただ、つい先ほど道路で見たもののことは、けして次元には言うまいとだけ、不二子は思った。

「だが……」

 次元はそこまで言うと、不二子の頬を撫でた。

「おまえは、いなくなるなよ」

 それは、さりげない響きだった。けれど、これまでに聞いたことがないような声に思えて、不二子は驚く。わずかに空いたその間に、次元はなにか別の意味を感じたようだった。あわてたように不二子から身体を離す。

「いや、悪い。つまらないことを言った」

 不二子はそれを引き留めて、首を横に振り、次元の身体にしがみついた。それはいつも自分が思っていたことのはずだった。自分のそばにいるはずのこの相手が、いつかどこかに消えてしまうのではという不安、自分の手の届かない場所へ不意に行ってしまうのではないか、という思い。それがこの男のなかにもあったなんて、と不二子は次元にしがみつく手に力をこめる。

「……いなくならないわ」

 しかし、不二子がそう言ったときに、信じられないことが起きた。次元が舌打ちしたのだ。

「ちょっと」
「……まったく、柄じゃねえよ、おたがい」

 次元はいらだたし気にそう言うと、不二子に向き直って、言葉とは裏腹なやさしさで不二子を抱いた。そうね、柄じゃないわと不二子も思う。しかし、柄じゃないというのなら、この峰不二子さまが猫に嫉妬することも、柄でないのだ。不二子は目を閉じて、次元の抱擁を味わった。あたしたちはいつも柄じゃないことに振り回されている。そして、振り回されて、酔っているのだ。この関係に。この恋に。

「次元……」

 不二子が次元に唇を寄せようとしたときだった。なにかが落ちる、どさっという音がした。窓際に置いてあった次元の上着が落ちたのだ。思わずそちらに不二子が視線を向けた瞬間、その上着の下から、黒い生き物が、とてとて、と歩いてくるのが見えた。

「黒いの」

 次元は不二子を抱いたまま、猫に向かって手を伸ばす。いつものように、猫は次元の手に頭を不器用にこすりつけてから、床に転んで腹を見せた。不二子は笑ってしまう。あの道路でみかけたものは、猫ではなかった。その事実が、不二子の声を不思議なほど軽くした。

「帰ってきたわね」

 不二子は次元の肩にもたれて言った。次元も笑っていた。

「……どうせ、腹が減ったんだろう。違うか、黒いの?」

 次元と不二子が目を合わせて笑うと、猫はびくと身体を震わせ、なにがおかしいのか、といわんばかりのいぶかしげな顔つきになる。そして、寄り添いあったふたりを見てから、また床にころころと転がった。

 

 

 その夜遅く、ルパンから次元に連絡が入った。いよいよ仕事の準備が整ったらしい。

「朝いちばんの飛行機で、まずはポルトガルだ。そこで、絵画が運ばれるルートを確認する」
 次元は、ルパンからのメールを確認しながら不二子に言った。
「あたしは別ルートで一足先にフランス入り。ルーブル御用達の鑑定人に取材という目的で近づく予定よ。そこから鑑定の細かいスケジュールを頂くわ」

 不二子もまたルパンからのメールに返事しながらにっこりと笑った。つい先日、この話をしたときとは大違いの気分で、大きな仕事の前にふさわしいときめきが胸に満ちていた。それはやはり、ぎりぎりのタイミングでこの男と濃密な時間を過ごせたせいかもしれない。しかし、不二子のそんな浮かれた様子を見て、次元は素っ気なく言う。

「横取りするなよ」

次元の釘さしに、不二子は声を上げて笑ってしまう。さあ、それはどうかしら?とほくそえんだ。次元はそんな不二子の思惑を見透かしたように肩をすくめた。

「……というわけで、しばらく留守にする。達者でな」

 次元は床で身体を舐めている猫に声をかけて、そのまま片手で抱いた。黒い身体が次元の上着に溶けこんでいるようなその様子を見てから、不二子は窓を開けた。

「さあ、あなたがたくさん持ってる別宅に行きなさい。分かってるのよ、子猫ちゃん。どうせたくさん寄る場所があるんでしょ」
「おまえみたいだな」

 不二子が次元をにらむと、猫はするりと次元の手から降りて、窓際に向かった。不二子はその姿に声をかける。

「またいらっしゃい」

 その声に、次元は意外そうな表情になって不二子をちらと見た。不二子はそれに合わせるように次元の身体に身を寄せる。
 猫はそんなふたりに一瞬、視線を向けた。そして、はじめて、にゃーん、と高い声で鳴いてから、窓から立ち去っていった。
 

 
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