「ガンマンは帝都の夢を見る」

 夢の中で死んだとき、人は現実に戻れるという話がある。

 そんな話をどこで耳にしたのか、次元大介には思い出せなかった。そもそも、いまの自分が、夢の中にいるのかどうかも自信がない。死にそうになってるとも思わないが、このまま動けなければそれはどうなるかは分からなかった。

 どこかから、ささやくような女の声がした。歌っている。次元もどこかで聞いたことがあるような、古い唄だ。子守歌にも似た緩やかな旋律が、どこか遠くから響いている。いったいおれはどうしちまったのかな、と次元は思う。

 自分はついさきほどまで、生きるか死ぬかの勝負をしていたはずだった。たしかにあれは……と思いかけ、次元はふと、意識が暗闇に引きずり込まれかけていることに気づいた。ひどく眠い。しかし、眠るわけにはいかなかった。

 もしかすると、自分はいまだに道端に転がっているのだろうか。それはあまり歓迎できることではなかった。しかし、不思議なほど瞼が重く、起き上がって確かめることも出来そうにない。ついさきほどの対決の余波が、まだ体に残っているらしい。無理もなかった。

 自分は、あの石川五エ門と対決したのだから。

「……取り次がないでといったでしょう」

 女の歌が止まり、不意に大きく、厳しい声になった。誰かと話しているらしいその声が、次元をぼんやりとしたまどろみから引きずり出した。次元は目を開けないまま、聞こえてくる声に耳を傾けてみる。

「……いったいどうしたの。あたしは今夜、もう動かないって伝えたはずよ。……ダンスホールもなし、宝石踊りも披露しない、それどころじゃないって……。潤ちゃん? あの坊やがなんだって……?」

 女はいったん、思案するように言葉を途切れさせた。

「……一生に一度のお願い、なんて、まあ……気の短いコだもの。きっとろくでもないことやっちまったのよ。……ええ、それでもあたしは今夜動かない。ねえ、あなた、かわりにあの子のところに行ってやって。そうね、千円でも二千円でも欲しいなら渡してあげなさい……、バカね、お金の問題じゃないのよ。行ってやれない、黒蜥蜴さまからの詫びの印だと……いいわね?」

 黒蜥蜴。その名前が、次元をはっきりと目覚めさせ、次元は反射的に身を起こす。どうやら自分は寝台に寝ていたらしい。そして、目の前の椅子には女が腰かけていた。ついいままで電話で話していたのだろう。女は、次元を見て受話器を置いた。

「お目覚めかしら?」
「……おまえは」

 その名をあらためて口にしようとして、次元はつい、頭を振ってしまう。訳の分からないことばかりのこの世界でも、目の前の女はとびきりの謎だった。それになにより、ヤバい、と次元が本能的に感じた相手だった。

「黒蜥蜴」

 次元が呼ぶと、女は、にっこりと微笑んだ。そう、この女は、帝都に悪名をとどろかせている女賊、黒蜥蜴だった。改めてその顔を見れば、長く緩やかに巻いた艶めいた赤い髪から片目をのぞかせ、口元にある黒子がなまめかしい。しかしなにより目立つのは、左腕にある刺青だ。名前の由来になっている、黒蜥蜴の刺青が、まるで生きた蜥蜴のように、その白い肌に張り付いているさまは、禍々しくも美しいものだった。しかしなにより禍々しいのは……。

 この女があの女、峰不二子に生き写しだということだった。

「お会い出来て光栄ですわ、本郷義昭少佐」

 そう呼ばれて、次元は、深く息を吐いた。

 いったいなにが起こったのか。次元にはっきりした記憶は無かった。ただ、懸命に思い起こしてみれば、目の前にあったのは光だった。それも、ただの光ではない。虹のようなきらめきをともなうまばゆさが世界を埋めて、そのなかに見知らぬ機械がかいま見えた。身体が浮くような感覚に、帽子を無くしそうになってあわてて押さえた。それは覚えている。しかし、そのあと、一瞬の暗闇があって……。

 そう、そして自分はここにいたのだ。昭和初期の帝都東京に、しかも次元大介ではなく、帝国陸軍軍人、本郷義昭少佐として。

 驚きのままに自分の服装を確認したときのことが、次元の脳裏に浮かんだ。いつもの慣れ親しんだスーツや革靴、中折れ帽子ではなく、カーキ色の帝国陸軍の軍服と、軍用のブーツと軍帽を身に着けている自分の姿に、次元は驚愕した。そしてなにより、腰に収めているのはマグナムでなく、古めかしい日本製のピストルだった。たしか南部十四年式とかいうやつだ。

 最初は夢か、ドラッグでも吸わされたのかと思った。ルパンのばかげた悪戯にひっかかったのかとも思った。しかし、頬をひねれば痛みがあるので夢ではなく、ドラッグのようなあやふやさや酩酊感もなく、ルパンもそばにいなかったのだ。まったくイカれてやがる、と次元は首をひねるしかなかった。しかしなによりイカれていたのは、それでも、その本郷義昭としての振る舞い方や生活をたどることが次元にとって難しくはなかったことだった。

「驚きました」
 黒蜥蜴は、次元に向かって身を乗り出すようにする。
「あたしの部下が、あの重富のお嬢さんの用心棒とあなたがやりあった結果、用心棒は川に落ち、あなたは道端に倒れているなんて知らせてくるんですもの」

 そこで、次元はようやく今夜の経緯をハッキリと思い出す。そうだ、この自分は、本郷義昭という男は、ただの職業軍人ではない。軍事探偵として、軍内にはびこる悪逆な企みを探ることがこの男の仕事なのだ。そして、いま、その狙いは大道寺大佐なる獅子身中の虫に定められており、いま本郷はその副官として大佐の動向をうかがっているのだ。

 もちろん、次元自身がそんなことに興味があるわけもない。自分が本郷義昭という男として振舞っているからくりも理解できないままだ。しかし、いまいる世界で、おれは次元大介という男で21世紀からやってきた、などといえば、そのまま精神病院に閉じ込められるであろうことは簡単に予想がついた。まずは身の安全を図るため、そして、この世界の正体が見極められるまでは、本郷義昭として過ごすしかないと次元は判断したのだ。

 そして、その判断からのなりゆきが、次元をあの男、五エ門との勝負に導いた。

 五エ門は、自分が大佐の手下として関わっている案件の重要人物である重富瑠璃子という娘の用心棒として次元の前に現れたのだ。

 五エ門は、次元に向かい、二つの質問を投げかけた。次元はあの大道寺の配下なのかという問いと、重富瑠璃子とお付きのサラントヤとかいう少女の行先だ。次元は、最初の質問は肯定し、次の質問は回答を拒否した。五エ門はそれを聞き、ゆっくりと表情を変えた。それを見て、できることなら自分からも、五エ門にひとつ、質問をしたいと次元は思った。

 おまえはおれの知っている、十三代目石川五エ門か、と問いたかった。

 しかし、その間もなく、五エ門は次元に向かって刀を抜いた。そこで初めて次元は理解した。この男は、五エ門に生き写しだが、まったくの別人だ。わずかでも対峙すれば、その差は明確だった。そう次元が思ったすぐあとで、確信が来た。その五エ門が持っていたのは、あの斬鉄剣ではなかったのだ。

 それが油断を産んだのかもしれない。自分の銃が慣れない十四年式だったのもいけなかったのだろう。しかしそれでもあれが斬鉄剣なら、いまごろおれの首があの川に浮いていたな、と次元は思う。それでもぎりぎりのところでその刀をかわしたところで、傷を負ったと思しき五エ門は川に落ち、自分はその橋のたもとで意識を失った、はずだった。

「あんたがおれをここに?」

 次元はあたりを見回して黒蜥蜴に問う。どこか見覚えのある、ここは黒蜥蜴の屋敷の一室のようだった。

「部下に運ばせました。とりあえず、お助けしなくてはと……」

 次元は自分の姿を確認する。腹には包帯が巻いてある。どうやら、気を失っていた間に、怪我の手当てまでされていたらしい。刃が触れるのは避けたつもりだったが、あの圧だけで身体がやられていても不思議でなかった。窮屈な軍服は脱がされて、壁に掛けてある。銃は、と目をやれば、ベッドサイドのテーブルに奪われることもなく置かれていた。どうやら監禁されているわけではないようだ。

 しかしなぜ……と思った次元の脳裏に、昨夜、この女を見かけた記憶がよみがえった。それは同時に、もうひとりの男の姿をも呼び起こした。

 そう、なによりも肝心なあの男、ルパン三世の姿だ。だが、この世界ではルパンは〝黄金仮面〟と呼ばれ、アルセーヌ・ルパンとして生きている。

 次元は他ならぬこの黒蜥蜴の屋敷で、〝黄金仮面〟と呼ばれたルパンの姿を見た。あのふざけたマスクとそれを取ったあとの姿を見たときに、叫びださなかった自分をほめてやりたいくらいだった。さらに、自分の弾をかわしたあの俊敏さと油断のなさを見て、あれは、間違いなく自分の知っているルパン三世だと次元は確信した。

 しかし、ルパンはすぐに次元の前から姿を消した。自分が本郷義昭として動いているように、ルパンはルパンでなにかの目的があるのかもしれない。そんな次元の推測は、ついさきほどの百貨店での騒ぎでさらに裏付けられたのだが……。

「おまえさんは、大道寺大佐と手を切ったんだろう」

 次元は目の前の女、黒蜥蜴を見た。大道寺大佐の手下として働いていたはずのこの女が、あの百貨店では大佐にはっきりと敵対した。なのに、その大佐の部下である自分を助けている。その矛盾が次元を身構えさせた。いまはこの女の狙いを探ったほうがよさそうだった。

「なのになぜ、おれを? おれは大佐の手下にすぎない男だぜ」

 不二子に生き写しのこの女は、あの用心棒が五エ門でなかったのと同じく、不二子ではないが、不二子と同様に油断ならない相手には間違いなかった。そんな懸念から自然にこわばった次元の声とは対照的に、黒蜥蜴の声はやわらかく、笑みを含んでいた。

「あら、あたし、あなたがあの男の手下にすぎないなんて思ったことは一度もありませんわ」

 もしかして、この女は本郷義昭少佐の正体に気づいているのか。そんな疑惑が次元の中に浮かんだ。しかしそれは自分を助ける理由にはならない。軍事探偵など、この女からすれば敵に回ることはあっても味方になることはあり得ない存在のはずだ。次元は、あえて正面から問うことにした。

「なら、そっちの狙いはなんだってんだ」

 軍人らしからぬ言葉遣いになったことに気づいたのは、黒蜥蜴の目が丸くなったからだった。しかし、すぐに、黒蜥蜴は次元の全身にさっと視線を走らせた。まるで品定めをするかのように。

「なら、あなたも教えて下さらないと」
「なにを」

 黒蜥蜴は、長い睫毛で縁取られた瞳を誘うように次元に向けた。

「あなたはいったいなにものなのかしら」

 次元は一瞬、身構える。この女はやはり不二子なのか、という考えが頭をかすめたのだ。この訳の分からない世界になぜ自分が放り込まれたかは謎だ。だから、不二子もまた一緒にこの世界に来ていたとしても不思議はない。黒蜥蜴、などと名乗っているのも、自分が本郷義昭少佐などという人物に成り代わっていることを思えば、納得ではないか……。

「おれは……」

 それでも、次元は口ごもる。この女は、〝不二子ちゃん〟と自分を呼ぶルパンに、なんのことを言われているか分からない、という様子を隠そうとしなかった。そのことを次元は思い出す。あれはあながち、演技というわけでもなさそうだった。

 次元の頭に、かつて目を通した黒蜥蜴に関する調査書類のことが浮かぶ。そのほとんどが〝不明〟という文字と墨塗りで潰されているような文書だったが、それでもこの女のなしてきた数々の悪行を知るには十分なものだった。ただ美しい外見だけが取り柄の女ではない。不二子かどうかはともかくとしても、ここは慎重にいかねばならない、と思う。

「帝国陸軍軍人、本郷義昭だ」
「まあ!」

 黒蜥蜴の眉が、一瞬、苛立たし気に上がる。そのまま、自分の黒いドレスの大きく開いた胸元に、手をやった。

「あなた、あたしをからかってらっしゃるのね」

 次元は気づく。あれは黄金仮面と呼ばれたルパンを捕らえていたときのことだ。黒蜥蜴は、あのときも大道寺大佐に向けて同じような仕草をしてみせてからかっていた。この女にとってはもはや癖のようなものに違いない、と次元はその胸元から視線をそらした。

「なあ、まだるっこしい話はやめておこう。いま話してるのはあんたの狙いだ。まさか、このおれをあんたの趣味の人間はく製にしたいってわけじゃあるまい」

 黒蜥蜴は目を丸くする。そしてすぐに笑いだした。

「ホホホ……おかしなかた。そんなこと……思いつきもしなかった」

 黒蜥蜴はささやくと、身を乗り出すようにして、さらに次元に近づいた。その仕草が意味することは明白で、次元はいささか辟易とする。この女が、思わせぶりな視線や動きで、男をどれだけ惑わせられるかを、すでになんども目にしてきたのだ。

 黒蜥蜴は不二子同様に女としての魅力を最大限に利用して男を振り回す女狐らしい。しかし、その振る舞いを、いま次元に向けているという事実こそが、黒蜥蜴は不二子ではない、という確証を次元に与えた。不二子は次元相手に女としての武器を使うなどという無駄なことはしないのだ。

 それが、この黒蜥蜴は違うらしい、と次元は思い、上目遣いに自分を見つめる瞳から視線をそらした。帽子を直したくなったが、とうぜん頭にそんなものは乗っていない。しかたなく、前髪をかきあげる。

「それを聞いて安心した。そろそろお暇するかな」
 次元は、なんとか寝台から立ち上がろうと腰を上げる。しかし、身体がぐらついた。黒蜥蜴はそれをそっと支えた。
「いけません。傷はともかく、おそろしく消耗されてたわ。まだお疲れのはず……」

 黒蜥蜴のその言葉を証明するかのように、次元のわき腹が鈍く傷んだ。それでも、ここに留まるわけにはいかない、と次元は舌打ちしてしまう。その音を聞いたのだろう。

「おかしなかた」
 黒蜥蜴の声に、はじめて尖った響きが出た。
「はじめてあたしを見たときに、あんなにじっと見つめていたくせに」
 さすがに次元は驚く。黒蜥蜴はつんとすまして言った。
「女はそういうことに敏感な生き物なのよ、ご存じなくて?」

 次元は思い出す。たしかにこの女を初めて見たとき、自分は視線を奪われた。しかしそれはもちろん、不二子にそっくりだったからだ。いまこうやって改めて見ても、不二子が自分をからかっているように思えるほど、黒蜥蜴は不二子に似ている。だが……。

「……あんたがおれの知ってる女に似てた、それだけだ」

 だが、違うのだ。次元はあらためてそう悟った。ついさきほど、五エ門に覚えたのと同じ、寂寥感とあきらめにも似た思いが次元を包んでいた。やはり、この女は不二子ではない。それはこうやって向かい合い、視線を合わせれば自然に分かることだった。

 黒蜥蜴はそのまま、次元を見つめ、やがて言った。

「想い人でいらしたのね」

 次元は吸ってもいない煙草にむせるような思いになって咳きこんだ。黒蜥蜴があわてたように背中をさするのを、首を振ってよけた。

「そういうんじゃねえよ、ろくでもない相手なんだ……そうだな、あんたらの言葉に合わせりゃ、〝毒婦〟ってやつだ」
「まあ、そんな女に似てるなんて!」

 黒蜥蜴はあきれたような声を出すが、それが不二子とよく似た物言いだったので、次元はつい笑ってしまう。すると、黒蜥蜴は、不意に真剣な顔になって、次元の腕をつかんだ。

「じゃあ、それだけだっておっしゃるの。あなたがあたしを見たのは、その毒婦とやらにあたしが似ていたからだ、と? だから、そのあとはあたしのことをろくに見もせずに、いたのだと……」

 次元を見つめる、その顔はどこか苛立たし気だ。この顔をどこかで見たな、と次元は思う。そうだ、この屋敷で、この女は大道寺大佐をからかったついでに、自分にも秋波を送った。面倒だな、と会釈で無視して済ませたのだが、あのときも、こんな顔になったのではないか。しかし、いまの次元は、不思議とその視線を無視できなかった。なぜだろう、と次元は思う。分からなかった。

「あきれてしまうわ」
 黒蜥蜴の指が次元の腕に触れた。
「そこらの男ならだれでも頬を赤らめ目をそらす、このあたしの言葉や視線をいつも無視して、どうでもいいものと受け流してたこと、覚えてらっしゃらないの? ほんとう、憎らしい」

 そのまま、軽くつねり上げられ、次元はいてえ、とつぶやいた。黒蜥蜴は小さく笑う。

「でも、おかしいじゃありませんか、あたしだって世間知らずの小娘じゃない。変わり者の男もいるものねと笑って忘れたらすむ話、なのに……お笑いください、あたしはどうしてもそうできなかったのです」

 次元は答えることができない。黒蜥蜴の声が、これまでの自信にあふれた声から、どこか頼りない、揺れる響きになったからだった。これもこの女の手練手管かと迷う。すると、まるでその考えが読めたかのように、黒蜥蜴の表情が硬くなった。

「まったく、今夜のあたしのありさまをお見せしたいくらいだわ。部下の報告を聞いてから、手負いのあなたを屋敷に連れ込んで恩を売ろうか、それともいっそ逃げ出せない場所に閉じ込めてしまおうか、といろいろ策を練っていたのに……いざ運ばれてきたあなたを見たら、気晴らしのダンスの予定も人と会う約束も、すべてすべて、どうでもよくなった……。なのに、あなたはいつもと同じ。あたしの言うことなどまともに聞いてはいない」

 さすがに次元は困惑する。いったいなにが起きているのか、とあらためて黒蜥蜴を見つめた。しかし、その顔は真剣で、さきほどまでの男をたぶらかす余裕ある笑みや謎めいた仕草など、どこにもない。もちろん、それこそがかの黒蜥蜴の魔術なのだと言われたら、それまでなのだが……。

「あたしは美しいものが好きな女です。宝石、美男、美女……それらをいつまでも永遠にあたしのものにしておきたい、それだけがあたしの望み……、あたしがどれだけの犠牲を払い、贅を尽くして、自分の世界を作り上げたか、あなたはきっとご存じない。想像もできないに違いない。あたしにはこれまでずっと、あの世界だけがすべてでした……でも、どうしてかしら」

 黒蜥蜴は、次元を見つめた。

「あなたを知ってから、それも、子供だましのおもちゃにしか思えなくなった」

 その頬がまるで少女のように染まっていることに、次元は気づく。

「ううん、そうじゃない。あなたを知ったからではない、あなたが……あたしを一瞬だけ見たあなたが、それからずっと、あたしに目もむけなかった、それ以来」

 黒蜥蜴は、まっすぐに次元を見つめた。

「ねえ。あなたはいったいどこからやって来たおかたなの。そして、どうしてあたしの前に現れたの」

 これは真実だ、と次元は知る。この声には本物の迷いと震えがあった。次元はいまだにこの世界が本当の帝都東京なのだということを信じきってはいなかった。だが、この女、黒蜥蜴が生きている世界なのだということは信じてもいい、次元はそんな気分になった。

 そして次元は手を伸ばし、黒蜥蜴の頬に触れた。黒蜥蜴はその次元の手を取り、自分の頬にさらに押し当てた。蜥蜴はひんやりとした感触の生き物のはずなのに、いま触れた、この女の肌は驚くほどに熱かった。そんな次元の思いを見透かしたかのように、黒蜥蜴は口を開く。

「あたし、熱いでしょう……? これもおかしな話じゃないかしら。どんな恐ろしい場面でも、あるいは喜ばしい場面でも、あたしはいつも冷たかったのに。人としてのあたりまえの感情や思いすら、必要としないからこそ、あたしは黒蜥蜴だったのです……」

 次元は不意に、黒蜥蜴を己の胸に抱き寄せた。理由はない。ふと、そうしてやりたくなったのだ。次元の胸の中で、黒蜥蜴はちいさく、息を吐いた。

「そうかな」

 この女が、こんな声で、迷っているのが不思議なほど、いじらしく思えた。次元はその思いのままに、なんとなく、言う。

「こうしてると、おれにはあんたもただの女に思えるぜ」

 こういえば、黒蜥蜴は怒るか笑うかのどちらになるだろうと次元は思った。しかし、黒蜥蜴はどちらもしなかった。ただ、次元を見つめた。

「あたしがただの女なら、あなたは……」

 どうするのか、と言おうとしたのだろう。次元は言わせなかった。その唇に、己の唇を重ねたのだ。どうしてそうしたのかは分からない。ただ、いま自分の腕の中にいるこの女がたまらなく美しく見えた。それだけだった。

 くちづけが終わると、黒蜥蜴は次元の胸にしがみつくように身を寄せる。次元は、その背中をやさしく抱いた。

「……あきれた」

 やがて聞こえてきた黒蜥蜴の言葉に、これは下手をうったか、と次元は思う。しかし、黒蜥蜴は微笑みとともに、潤んだ瞳を次元に向けた。

「あたし、こうなるにはどうしたらいいか、ずっと考えていたのに。どうやってあなたを落としてやろうかと策を練って、頭が痛くなるほどだったのに。それがどうでしょう、いざこうなったら、あきれた話……」

 黒蜥蜴は、次元からすっと視線を逸らす。

「落ちたのはあたしの方だなんて」

 さすがに次元も、顔がかっと熱くなるのを感じる。しかし、同時に、わき腹が鈍く傷んだ。思わず窓の外を見れば、夜明けが近くなっているのが分かった。

「……行かねえと」

 次元の言葉に、黒蜥蜴の体が揺れた。しかし、次元の頭には、さきほどの五エ門の姿が浮かんでいた。あれだけの戦いの後であっても、五エ門と名乗るだけの男ならば、重富瑠璃子とサラントヤの行方を追うだろう。ふたりは大道寺大佐の隠れ家に監禁されているはずだった。いまはそこに向かい、大佐が重富瑠璃子に無体なことを仕掛ける前にその狙いを暴かなくてはならない。

 もちろん、次元大介という自分にはそんな義理はない。だが、いまその名前を借りている本郷義昭という男ならばそうするだろうという確信があった。そう思えば、次元に選択肢はなかったのだ。

 それでも、ホンモノの本郷義昭ならば、女盗賊に参っちまうなんてあきれたことはなかっただろうな、と次元は思い、その考えに頭を振りたくなる。おい、おれはいまなんと考えた? しかし、いま自分の胸に柔らかくかぐわしい身をもたせかけている女を見るだけで、心に湧き上がってくるものがあった。それは誤魔化せない事実だった。

 くそ、と次元は頭をかきたくなる。こんなことをしている場合ではないのだ、と思ってみる。それでも、目の前の黒蜥蜴はあまりに可憐な存在だった。だからこそ、と次元は思い切って黒蜥蜴を自分から離した。そのまま壁に掛けてあった軍服に腕を通すと、十四年式を腰に収めた。

 黒蜥蜴はどこかあぜんとしたようすで次元の身支度を眺めていたが、やがて、あわてたように口を開いた。

「待って、まだ……」
「悪いな。こっちにも事情があってね」
「大道寺大佐のことならば、あたしもお手伝いできますわ」
「無用だ」

 その言葉に、黒蜥蜴の眉がはっきりと曇る。次元はそれを見ないようにかぶりを振った。そのままドアに向かって歩き出すが、ふと足を止め、振り返った。黒蜥蜴と目が合うと、自分でも深く考えないまま、言葉が出た。

「なあ、このさきどうなるかは分からねえ。が、またあんたに会えりゃいいとは思ってる」
「……ほんとうに?」

 黒蜥蜴は、次元に駆け寄った。

「ねえ、あなた、約束なさって」
「……いつどこでとまでは言えねえよ」
「ええ、ええ……! でも、約束して頂きたいの。けしてこれきりで終わらないって」

 黒蜥蜴の瞳は真剣だった。まるで吸いこまれそうだ、と次元は思う。

「これがいま、あたしの見ている夢でもないかぎり、またお会いできるって、信じさせてくださいな……」

 その願いに、次元は言葉で答えなかった。ただ、もういちど、その身をやさしく抱いて、くちづけをすることで、答えることにした。

 これがいま、おれの見ている夢でもなければ、おれもまたこの女に会いたいと思いつつ。

************

 ……そしてまた、不思議な感覚があった。

 次元はいま、自分がどこにいるのかを確認する。間違いない、あのからくり時計が展示されていた展示室だ。自分は黒蜥蜴の屋敷を出たあと、重富瑠璃子とサラントヤの監禁場所に向かったのではないか。それがどうしてここに、と思っても記憶ははっきりしなかった。目を凝らせば、そこにはまぎれもない、ルパンの姿があった。

「黄金仮面……いや、ルパン!」
 次元はその背中に向けて銃を抜く。とたんに、ルパンは振り返った。視線が合う。
「やっぱ、マグナムじゃねえとしまらねえな、次元」

 その声を聴いた瞬間に、次元の身体からは力が抜けた。とたんに湧きあがった確信と安心のままに、次元はルパンに駆け寄る。

「やはり、おまえだけはホンモノだったんだな、ルパン! 逃げ隠れしやがって……」
「あいててて! ちょ、そんなことしてる場合じゃねえだろ」

 次元はそのあごをつかんで締め上げたが、ルパンは大げさな悲鳴を上げる。しかし、こいつはなぜおれが次元大介だと分かったのかと次元が思ったときに、ルパンはまるでその心を読んだかのように、言った。

「やっぱり次元じゃねえか。なあに、おまえがおれに向かってその南部十四年式を撃ったときに分かったのさ。なにかおかしい、おまえとしたことが、まるでその銃を使いこなしちゃいねえって、ピンときたんだ。そして、おまえがそう思ってることもすぐに分かった」

 ルパンはにやりと笑う。

「あとはタイミングだ。そう思ってながめてみりゃ、おまえは帝國軍人って柄じゃねえからな。いつ尻尾を出すかと思ってたのさ」

 次元はおもわず顎を撫でた。そして問う。

「ルパン、いったいここはどういう世界なんだ」

 次元は、懐から煙草を取り出す。吸わずにはいられない気分だったのだ。

「まあ、実はこの世界はな……いや、そろそろかな。さっきの壁のもうひとつ外側からの反応が返ってくるのは」

 ルパンがそんな謎めいた言葉を口にしたとき、次元はその場にあの女、黒蜥蜴がいることに気づいた。仕事用なのだろう、いつも不二子が着ているのに似たレザースーツを身に着けている。自分を一心に見つめているその視線を、いささか面映ゆく感じ、次元はルパンに視線を戻した。

「もう一つ外側……なんのことだね」
 黒蜥蜴のそばにいる男、明智小五郎が言った。しかしルパンはかぶりを振る。
「それは……知らない方がいいことかもしれない」

 そのときだった。突如現れた大道寺大佐が、ルパンに銃を向けた。しかし、次元が反応するより早く、あのサラントヤが大佐を蹴り倒し、捕縛してしまう。

「おまえたちにはなにひとつ渡さぬ、からくり時計も、鍵も、わたし自身も、そしてなにより、我が王国を!」

 その力強い叫びに、すぐに次元はある結論に達する。それは、あの重富瑠璃子も同じようだった。

「サラントヤ、あなた、まさか……男の子やったの?」

 続く、明智による、サラントヤの正体がアルタンホト王国、黄金の城の王子であることを明かす言葉を、次元はどこか他人事のように聞く。それは自分にとっておおごとではない、と気づいたのだ。それはこの男だ、と次元は大佐を見て、かれが落とした十四年式を拾った。

「おお、本郷少佐、やれ、やつらをやってしまえ!」

 次元の存在に気づいた大佐は、サラントヤに押さえつけられたまま叫んでいる。次元は十四年式を眺める。おまえも悪くない銃だが、おれの相棒じゃねえんだ、と投げ捨てた。

「きさま、なぜ!」

 大佐の声が耳に入った瞬間、次元の口から、思わぬ言葉が口から飛び出た。

「大道寺大佐、たとえ誰の目からも同じ穴のムジナに見えたとしても、あんたとおれは違うのだ、この、本郷義昭はな!」

 顔色を変え、そのまま襲いかかってきた大佐を、次元は投げ飛ばした。次元は、そのまま、考えずに叫ぶ。

「アジア解放のためにはどんなことでもやる……と同時に、貴様のような私利私欲の塊を捕らえるのもおれの仕事なのさ」

 まるであらかじめ記憶していた芝居の台詞を言わされているようだった。その言葉が終わると同時に、黒蜥蜴と明智のつぶやきが次元の耳に入った。

「あれが……」
「そう、かれこそはかの有名な日東の剣侠児こと不死身の軍事探偵、本郷義昭だよ」

 なるほど、本郷義昭はそこまでの存在だったのか、と次元は納得する。そしてその本郷義昭たる自分は、この世界で、こいつを片付ける運命にあったわけだ、と次元は大佐を縛り上げた。そのまま廊下に蹴りだす。

「さてと……おれからのパスワードはどうだった? もっともおれがマシンに登録したのは非常用のダミーナンバーだ……」

 ルパンがなにかを言い始める。誰に語りかけているのか、次元には見当もつかない。いや、分かるような分からないような、頭の中の霧がかかった部分に触れるような言葉だった。

「どうやら、お別れの時が近いようだ」
 しかし、そのときだった。明智がルパンに歩み寄る。ルパンもまた笑ってそれに応えた。
「さすが名探偵。おれと次元は、この世界にまぎれこんだバグみたいなもの……と言っても分かんねえか。とにかくおさらばする運命なんだよ……」

 そこで次元は黒蜥蜴が短く息をのんだことに気づく。ルパンが続けて語っている言葉も、耳に入っていないようだ。次元は、いつのまにか、銭形、いや、浪越警部と警官隊が自分とルパンを取り囲んでいることに気づいた。

「ルパン、今日こそは御用だ!」
「申し訳ないが、ぼくにはかれらを止める理由が無いものでね」
 明智が笑って言う。マジかよ、と次元は思ったが、ルパンは軽く言った。
「さて、どうする? 去り際にもう一戦交えるか」
「……そういうことになるかな」

 次元は床に投げた十四年式に目を向ける。最後にもうひと踏ん張りしてもらうか、と身構えたときだった。

「いいえ、これでもう終わりよ……わたしの夢につきあってくださって、ありがとう」

 それは重富瑠璃子の口から発せられた言葉だった。しかし、まるで老女の声だ。その事実に次元が戸惑う間もなく、からくり時計が光を放ち、動き出した。

 とたんに建物が大きく揺れる。違う、と次元は足元を見た。揺れているのは建物ではない、自分自身、あるいは世界そのものが揺れているのだ。消えていく、と次元は目を凝らした。なにもかもが崩れて、消えていこうとしている……。

 次元は咄嗟にあたりを見回す。そこにはあの女がいた。黒蜥蜴だ。

「あなた……!」

 突然の出来事に驚いた顔をしながらも、次元に駆け寄ろうとしたその姿を見て、次元は咄嗟にかぶっていた軍帽を投げた。黒蜥蜴はそれを受け取る。全部で数秒にも満たなかったその瞬間、ふたりの視線は絡みあった。

 その瞬間、次元には分かった。そして、この女にも、分かっているに違いない、と思った。

 自分たちは、もう二度と会うことはないのだ。

 意識が遠くなるなか、次元はもういちど、あの瞳を思い出す。吸い込まれてしまうように美しかった、あの黒い瞳を……。

***********

「……よし、信号を出した。これで五エ門たちと合流できる」
 ルパンは、シートにどっかと座って大きく伸びをした。
「まーったく、たいしたヴァーチャルマシンだったなあ」

 建物を出た次元とルパンは、自分たちの車を見つけて一息ついたところだった。次元は、頭に手を伸ばし、そこにあるのがいつもの中折れ帽であることを確認すると、ルパンに言った。

「あれがいわゆる体験型VRだって? まったく信じられねえ出来だったな」

 次元はすでにすべての記憶を取り戻していた。自分とルパンは、お宝の情報を得て、ある巨大施設に潜伏したのだったが、それはとある組織の罠だった。これまでのルパンの獲物を求め、アジトへの侵入を狙ったかれらにより、ルパンと次元はその組織が管理していた秘密裡に開発されていたバーチャルマシンによって、架空の世界に放り込まれたのだ。

「よりにもよって、昭和初期の帝都東京とはな」
 
 ルパンによってもっともらしく説明されたそんな事実だったが、次元としてはどうにも現実味を感じられないことだった。

「おれたちがあの世界でそれぞれ、黄金仮面に本郷義昭って役割を与えられたのはなぜだ」
「そうだなあ。これはあくまでおれの推測だが……あの世界を構築した開発者は、あの重富瑠璃子嬢だった、それはたしかだ」

 次元はルパンとともに眺めた、マシンに飾られていた瑠璃子の顔のレリーフを思い出す。

「あれが歳老いた瑠璃子嬢の思い出のよすがとして創られたものならば、あの世界を訪れる人間にはみな、彼女の冒険譚を盛り上げるためのなんらかの役が与えられるのかもしれねえな。そのために必要な記憶もこみでな」
「マジか」
「あれだけのヴァーチャルマシンを作り出せるんだ。体験者の脳に一種のニセ記憶を植え付けることもそう難しいことじゃねえだろうよ」

 ルパンはこともなげに言うと、煙草に火をつけた。

「あのなんとかいう警部とか、五エ門そのままの用心棒とかも、たぶんおれたちの記憶から呼び起こされた一種の虚像だ。それが、あんなに生きた人間そのままの言動をするって、たまげた話さ。不二子ちゃんが聞いたら、どうしてそんな高く売れそうなもの置いてきたのよっていうだろうな」

 次元はそこで、自分も煙草を取り出した。

「面倒だ。あの女には黙っておけよ」
 ルパンが肩をすくめて同意するのを見て、次元は深く煙草を吸い込んだ。
「まったく、始末に負えねえ作り物の夢ってことだな、おれは疲れた。ひと眠りするぜ」

 身体に重い疲れを感じ、次元はそのまま、目を閉じた。不二子の名前が出たとたん、頭の中に浮かぶ姿があった。その事実に、戸惑ったのだ。

「……だけど、すべてが作り物とは限らない」

 不意のルパンの言葉に、次元は薄目を開く。

「なんだって?」
「瑠璃子の記憶の中には、あんがい、おれやおまえに当たる人間が織りなす似たような出来事があったのかもしれないぜ」

 にやりと笑うルパンの言葉に、次元はどう答えていいか分からない。ただ、もういちどあの女、黒蜥蜴の姿を思い浮かべる。あの不二子の似姿を持った、大胆不敵で美しく、しかしどこかけなげで愛らしかった女が目の前にいたことが、いまとなっては信じがたかった。

 すべては夢だ、と次元は思う。だからもうしばらくで、すべて忘れてしまうだろう。

 そう思ったものの、最後の最後、自分が投げた軍帽を抱きしめて、こちらを見つめたあの美しい瞳だけは、心のどこかに残るかもしれない。はたして、このあと、この世界の不二子を見たときに、自分は平静でいられるだろうか? 

 そんな疑問が次元の中に、ふと浮かぶ。すると、あのかりそめにも触れた唇の記憶がよみがえりそうで、次元は、しっかりと目を閉じた。あの帝都での出来事を、すべて夢に溶かしてしまいたいと思いながら。

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