「夕凪の街桜の国」こうの史代(双葉社)



発表当時、かなりの評判になった本です。そのときに、本屋で立ち読みして、うわ、と足元が揺れた。それからも本屋に行くたびに気になってしかたなかったけれども、もう一度ページを開く勇気はなく、でもここまで気になるということはきちんと読めということなのだ、と覚悟を決めました。広島の原爆とその被害にあった人々の生き方を三世代にわたって描くマンガです。
 作者独特の柔らかで滑るような線は、原爆以後もたくましく生きる女性達の姿を描きつつ、その傷をさりげなく表現します。それは銭湯でかいまみられるような火傷のあと、だけではないのです。
誰もあの事を言わない いまだにわけが わからないのだ わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ 思われたのに生き延びているということ 
 幸せに手が届いた主人公を襲うのは、あの日の記憶です。それは、とても見るに耐えない、感じるに辛い描写です。けれど誤解しないでほしいのは、必要以上のグロテスクな描写などはありません。それでも、作者独特のあっさりとやわらかな描線で描かれるその惨状は、あまりにも、辛い。気持悪いとか怖いとか哀しいという意味ではなく、その極限状態をわたしもまたこのマンガを読むことによって再体験するのです。大きく揺れる気持ち。これまでに見たことがある記録映画の映像は、本当にただの断片にしか過ぎないとわたしは知ります。
そっちではない お前の住む 世界は そっちでは ない と誰かが 言っている
 「夕凪の街」における主人公の最後の述懐は、あまりにも悲しく、実感できるものであり、きっといまもこの世界で同じことを思っているひとはいる、はずです。核に限らず、戦争というものはそういうものである、のです。
 そして続く「桜の国」二話は、目に見えるかたちでは姿を消した原爆の残したものを淡々と描きます。交錯する時間のなかでも、重くのしかかるそれは、戦後50年たったこの世界でも変わらないのです。いくらでも感情的にストレートに劇的に出来る題材を、この作者は淡々と、しかし意思強く描きます。マンガとして、上品なのです。それでもP70とP71の見開きの表現は、すごいと思った。
 わたしが最初、この本を手に取らずにはいられなかったけれども、購入できなかったのは、単に「哀しい話はいや」というだけではなく、母方の祖父が被爆者であるということも関係あるかもしれません。健在です。それこそ、マンガのなかで語られるように90近くなった祖父が死んだとしても、それと原爆を結びつけるひとはもういないでしょう。祖父は、とてもお説教が好きで、ご先祖様を大事にすることをしつこいほど云うひとでしたが、とうとうわたしに直接の原爆の話はしませんでした。最後に逢ったときはもう寝たきりで、何もかも分からなくなっていましたが、わたしの手を握り、長い黒髪を褒めてくれました。
 戦争がある世界ではきっとこれもありふれた話のひとつ、もっと酷い話もいくらでもあるでしょう。ただ、わたしは、原爆というものが生み出した理不尽な世界を、知ってもらうために、多くの人にこの本を読んでもらいたいと思いました。

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