「だから、ひとりだけって言ったのに」クレール・カスティヨン(早川書房)



 あたしは叫んだ。もしママがいなかったら、誰がこんなふうに物事をありのままに話してくれるの?ママなら信じられる。自分はもうすぐ死ぬと言っても。ママを助けてくれると言った先生の言うことではなく。(p35「アノラックとファーブーツ」より引用)
 ママ、ママ、ママ。この本に収められた19の短篇には、様々な母と娘の関わりが書きだされています。語り手には、母もいれば、娘もいます。これから母になろうとする娘もいれば、母であることを放棄する娘もいる。でも、みなが、このもっとも濃い血のつながりに、引き寄せられ、抱きしめられ、縛られ、がんじがらめにされていることで共通しています。
 
 この作家はフランス人です。わたしはヨーロッパ圏の作家とはあまり相性が良くないので、最初はどうかなあと思ったのですが、この作品集はすいすいと読み進めることが出来ました。どのお話もごく短く、エキセントリックな部分があるにも関わらず、ふと、腑に落ちる。そんな印象です。それはやはり、テーマが、母と娘という、文化によって見解が異なるようでいて、根っこにはどこの文化でも存在する関係性の問題を描いているものだから、なのかもしれません。また、文学ではしばしば取り上げられるテーマかもしれませんが、重苦しいものが多い印象がして、正直、苦手なテーマでもあります。なにより、そんなものは、文章でつづられたものを読むことよりも、自分のなかにいるあの存在を見つめ直せばすむこと、という感じがするからかもしれません。他者であるはずなのに、どこかがいつまでも繋がったまま、離れない糸で結ばれているような、あのひとのことを。しかし、この作品集は、そのテーマを様々な切り口で取り扱っており、正面から重さを投げかけられる事は無いような気がします。
 「だから、ひとりだけって言ったのに」という表題作を読んで、他の作品はすべて初訳だけれども、この作品だけは、ハヤカワミステリマガジンに掲載された、とあるのを見てちょっと納得しました。この傾向の作品ばかりだったら、早川の異色作家短編集とかから出ててもおかしくないもの。「代理ミュンヒハウゼン症候群」「ピンクの赤ちゃん」も、そういう意味では同傾向かもしれません。
 また、母親が語り手である作品は、普通小説の範疇かもしれません。けれども、どれもがどこか歪んでいたり、いびつであることは確か。「私の親友」はどこまでもどこまでも娘と同じ立場にあろうとする母親の心性が不気味に偏執的で気持ち悪い。母親が娘に固執する不気味さを描いたのは、他にも「きっと治せる」「素敵な女性にならなくちゃね」などだけど、どれもが味わいが違う作品になっています。フランスって個人主義の国だと漫然と思っていたんだけど、十分、日本の母娘でも起こりうる気持ち悪さを感じました。
 さらに、娘の立場からの作品も収録されています。たとえば、母親とバーゲンセールに出かける苛立った少女を描いた「アノラックとファーブーツ」は、一瞬、その場面がくっきりと切り取られたように浮かび上がる作品で、奇妙な発想は無く、それでも良かった。夫の浮気を疑い、母親にすがるしかない精神的に不安定な女性の揺れ動きを描く「彼らはレストランでシャンパンを飲んだ」は、ぐらつく彼女の心性が読み手にも伝染してくる感じです。また、離婚の結果を見届けた娘が語る「パパは悪いひとじゃないわ、ママ!」や、自分のアイデンティティの崩壊を食い止めようと必死になっている少女の独白である「うそつき」などは、痛々しいくらいの切実さをともなって、こちらに迫ってきます。
 そして、母と娘を永遠に切り分けるもの。すなわち、老後と死に関しても、いくつかの作品があります。老人ホームにいる母の立場からみた「心をこめて」という読後感がじんわりと温かい作品もあれば、不安と苦しさに満ちていつつも、ある意味で平穏な生活の変化を拒んだ娘の行動が怖ろしい「おバカさんとひも結び」や、これはいまでも国境関係なく存在すると言いきれる、介護の問題が母娘関係のいびつさを晒した「母は絶対に死にません」といった作品があります。そしてわたしは、このテーマでは、手術続きの母親について娘が考える「十年で十回の手術」がとてもいいと思いました。短い作品ですが、言葉のひとつひとつが、身体にすとんと収まってくるような、そんな作品です。
 母と娘というテーマに興味があるひとはもちろん、そうでなくても、偏執的な世界観や奇妙なお話が好きなひとなら、読んで損は無いと思います。海外文学が苦手な人でも、短編集だし、飽きさせない本だと思います。おすすめ。

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