「おだまり、ローズ―子爵夫人付きメイドの回想」ロジーナ・ハリソン(白水社)



 いまからおよそ110年ほどの昔。1899年に、イギリスのヨークシャー地方で、侯爵お抱えの石工である父と、お屋敷の洗濯物を仕事にしていた母とのあいだに、四人姉妹の長女として生まれた女の子がいました。彼女は、物心ついた時から家事を分担して、炊きつけをくべて火をおこし、井戸から水をくみ、繕いものや洗濯に幼い妹や弟の世話に明け暮れていましたが、学校で学ぶのも大好きでした。もっとも、兎の皮剥ぎにはうんざりでしたけど。やがて、奉公に上がるべき年齢に達した時に、彼女は小さなころからの憧れを口にします。旅行に行きたい、と。すると思ってもみなかったことに、彼女の母はこう言ってくれたのです。「それほど難しいことじゃないかもしれないよ。お屋敷勤めの召使のうち、女ならお付きのメイドは、ご主人がどこに行くときもお供するのが普通だからね」……それが、この少女の運命を決めることとなるのです。
 この本は、イギリスの貴族階級に仕えるメイドとなった女性が、いくつかの勤め先を経てメイドとしての経験を積んでいく過程と、最終的に出会った強烈極まりないパーソナリティを持った女主人、レディ・アスターとの30年近い関係について語ったものです。1920年代から第二次世界大戦が始まるまでの、貴族階級の暮らしぶりが丁寧に語られる部分にまず興味が惹かれました。執事やメイドといった使用人の役割に始まって、晩餐会の席順がどうやって決められるか、それに使う銀器の手入れから、服に添えるレースの色にいたるまで、華やかで込み入った生活習慣にも、実に細々とした決まりごとがあるのが、ややこしくも面白い。他の本なら、単なる事実の羅列となりそうなそういった物語の歴史的な背景たる部分ですが、この本では、語り手の熱の入った楽しそうなさえずりに耳を傾けているうちに、自然と頭に入っていくという感じで読めました。
 そう、なによりもまず、この本の魅力は、語り手であるローズです。この当時の女性が生きぬくためには必要だった損得勘定も当たり前にしながらも、どんな立場になっても、自分の信念は曲げずに、とにかく身を粉にして頑張る。けれど生活に疲れることはなく、いろんなことに興味があるおしゃべりな少女としての一面を保ち続けているのが可愛い。当時の写真もありますが、意志の強そうな表情が魅力的な金髪の眼鏡っ子です。そして、そんな女性が仕えることとなった、レディ・アスターという女主人がまた、とんでもなく個性的で「淑女でない」女性だったこと。両者にとってこれは幸運な運命だったのかもしれません。ローズは、女主人相手でも理不尽なことには一歩も引きませんし、この女主人も使用人の迷惑など微塵も考える事も無く、自分の気紛れと信じる正義のためには邁進を続けます。この本の題名が「おだまり、ローズ」という言葉であるように、その二人の丁々発止なやりとりがこの本の最大の読みどころでしょう。わたしは名香智子とか竹宮恵子の絵柄で想像しました。あの頃の少女マンガにあってもまったく不思議でない、主人と使用人とは思えないような遠慮ない言葉のバトルは、まさしくマンガのように面白いのです。
 それだけ、ローズの相手役であるレディ・アスターの個性もこの本の大きな魅力です。アメリカの南部で生まれ、イギリス人のアスター子爵と結婚。禁酒主義者でクリスチャンサイエンスに傾倒し、女性で最初のイギリスの国会議員。慈善好きで笑いを愛し、空襲の恐怖におびえる人々の気を紛らわせようと防空壕のなかで側転をしてみせる勇気の持ち主。けれど同時に帽子に目が無い派手好きで、気紛れでお人よし。かっとなると我を忘れ、他人を侮辱することを何とも思わない。子どもも夫も自分の思うようにコントロールすることを当たり前と思い、家族への「愛」を表現することを知らなかった女性。とても魅力的だけど、身近にいたら実にたまらない人であることは確かなこの女性の欠点も隠さず伝えながらも、同時に、とても愛すべきひとでもあったことも語るローズ。二人の間にあったのは、単純な女同士の絆とか友情とか愛情とかで片づけるのはためらわれるような、なにかだと思います。雇い主と使用人、という壁から存在していた距離があったからこそ、生まれた、より深い相手への理解というものをローズの言葉からは感じます。
 イギリスの貴族や大地主たちの所有する屋敷「カントリーハウス」での生活に興味がある人ならまず読んで損はしないと思いますが、ここで語られるのは、それだけでなく、歴史の流れでゆっくりと変化していったかれらの生活であり、同時にそれに逆らうことが出来ないまま、女主人とその使用人としての関係をまっとうしたひとりの女性の人生の物語でもあります。なにより大事なのは、それらが女同士の言葉のバトルと揚げ足とりと喧嘩のやりとりで笑いも多く語られること。重厚な内容でもありますが、テンポよく実際的に物事を処理していくローズの語りに押されてぐいぐいと読まされました。面白かったです。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする