「脳を鍛えるには運動しかない!」ジョンJ・レイティwithエリック・ヘイガーマン(日本放送出版協会)



 これ、タイトルで微妙に誤解を受けると思うのはわたしだけでしょうか。原題は「SPARK The Revolutionary NewScience of Exercise and the Brain」。解説によれば、“SPARK”には、『発火』と『生気』の二つの意味があるということ。「最新科学で分かった脳細胞の増やし方」という副題が示すように、脳と運動に関する新しい科学的知見の革命を現わしているということになると思いますが、このタイトルでは、運動に興味が無いひとはまずスルーだろうし、そういう人の多くは、運動にネガティブなイメージがあることも多いので、「それしかない」と言われると、ますます手に取る気を無くすのでは…と感じるのです。それではもったいない内容です。
 運動にネガティブなイメージがあるひとっていますよね。ほら、小さなころから体育の時間や運動会にはトラウマ的な記憶しか持たず、体育会系の人々の言動からは敬してその身を遠ざけて、日常的なウォーキングやエアロビクスなどのエクササイズもぶっちゃけめんどくさく、ヨガとかピラティスなら激しい運動じゃないからいけるかなと思ったものの、己の体の硬さを思い知らされる結果にバンテリンを塗り、ビリ―隊長やコアリズムなどの流行には「そんなの続けられないと意味ないしー」と始めることすらしない、体を動かすというとライブしかなくて、それも激しいのはとんと御無沙汰だわ…という、そういうひと。あ、しまった、つい自己紹介をしてしまいました。
 そんなわたしも、ここ数カ月は(主に血液検査の紙に「おまえデブじゃね?」「運動しないと死ぬよ?」と言われたせいで)、仕事帰りにトレッドミルの上でてくてく歩くレベルの運動を続けています。これは運動神経に関係ないし、走るより疲れないし、なにより、トレッドミルなら歩きながら本が読めるからね!最後の点に気づいたときには、わたし、自分の生涯で最適な運動をやっと見つけた喜びにうち震えました。歩きながらだと視界が揺れて本が読めないというひとも多いようですが、そういうひとは音楽を聴けばいいと思います。運動苦手だけど、そろそろ体を動かさないと…というかたには、第一歩としてトレッドミルでのウォーキング、おすすめです。角度と速さの調節次第で、けっこう体力も使います。まあ、そういうわけで、遅まきながら、わたしも運動というものを己の人生にようやく受け入れることができました。
 
 本書の内容自体は、適切な運動を行うことにより、脳細胞の再生と頻繁な活動を促すことが出来て、学習や情緒の安定につながるということ、また、それにより自分自身の生活における様々な事柄のコントロールも容易になり、より健康になることができる、ということを、豊富な実験例とエピソードを通し、実に具体的に語っているものです。こういう一般向け翻訳書の多くにいえることですが、その挙げられているエピソードひとつひとつがとても具体的で、なおかつ面白い。まあ、丸一冊読みとおしても「運動でそんなに賢くなるというのなら、体育会系の人々の多くはどうしてこう一般的にアレな感じの人が多いのか」というわたしのなかの偏見をくつがえすような意見はなかったのですが、この本でも、運動さえすればいいといっているのではなく、運動をすることにより、多くの学習を受け入れる基礎や余地のようなものを創りあげることができますよ、ということをいっています。それからどう伸びていくかは、本人と環境次第なのはいうまでもありません。
 しかし、わたしがなによりもご紹介したいのは、本書の中の一エピソード。形骸化していた体育の授業を独自のアイデアで再生させることにより、こどもたちの学力の向上にもつなげたアメリカの体育教師の取り組みについて語られているところです。わたしは、この部分だけでも、日本全国の小学校の体育教師に読んでもらいたい。体育の時間が苦痛で苦痛でしょうがなくって、結果としてスポーツはおろか体を動かすことからも遠ざかったたくさんのこどもたちのために、読んでほしい。わたしもそうです。そしてあなたもそうでしょう(ちがう?)。すなわち、生徒を能力でなく努力で評価することが大事だということ。こんな当たり前のこと、と思いますか?それとも、なんのことか分りませんか?
 子どもの健康状態が下降しつつあるという新聞記事を読んだ、アメリカの体育教師、ローラーは、それをきっかけに、体育の内容を見直し始めます。そして、能力評価が、走るのが遅い生徒たちのやる気をなくさせることに気づき、まずは、エアロバイクをこぐことにより割増単位を与えるという方法で、運動の苦手な生徒でも努力次第でAを取れるようにします。さらに、40人の生徒ひとりひとりがベストを尽くしたということをいっぺんに評価するにはどうしたらいいかということを考え、心拍計を生徒につけることを思いつきます。
さっそくその週、生徒たちが走るときに、体型はスマートでも運動が苦手な六年生の女子にその心拍計をつけさせてみた。その記録をダウンロードしたローラーはわが目を疑った。『彼女の平均心拍数は一八七だったんです!」十一歳ということは、最大心拍数はおおよそ二〇九なので、彼女はほぼ全速力で走っていたことになる。(中略)「おいおい!嘘だろう?思わずそう言っていました。いつもなら、その子のところに行って、もっと真剣に走らなきゃだめだ、と注意していたところです。まさにそのとき、計画全体に劇的な変化が起きたのです。その心拍計がすべての出発点となりました。思い起こせば、教師がほめてやらなかったせいで、どれほど多くの生徒が運動嫌いになってしまったことでしょう。実際のところ、体育の授業であの女の子はだれよりもがんばっていたのです」(p85-86より引用)
 速く走れることとベストを尽くしていることは、必ずしもイコールでないということに気づいたかれは、その後も、同僚とともに、体育の授業の改善に取り組んでいきます。生徒がうまくこなせて満足できるものをみつけてやるべきだということ(なので、体育の授業の選択肢にはDDRだってあるのです)、無理なく楽しめる運動をさせるということを提案し、かれらが学校を卒業した後も、生涯続けられる運動の計画を立てさせる手伝いをすることが、かれらの仕事だと信じて。このエピソード自体は、本書の要というものではありませんが(こういうかたちで体育を楽しめるようになり、運動量が増えたこどもたちの学業成績が驚異的に伸びた、という流れがあります)、わたしはこのエピソードにいちばん感動しました。心拍数を見るまで、そんなことにも気付かなかったのか、とかいいません。だって人間は自分が出来ることは他人もできるはずだと思い込みやすい生き物だもの。
 わたしは、いま、運動が得意なひとからしたら鼻で笑うような、あるいは奇妙だと思われるやりかたかもしれませんが、自分のやりかたで、運動を楽しめるようになりました。そして、こんなにも長く、わたしに「おまえは運動が出来ない」「運動は苦痛なものだ」とささやきつづけてきたのはなんだろうと思ったら、それはやはり小学校での体育の授業であったと思うのです。いまの小学校での体育の授業はどうなのでしょうか。いまでも、皆の前で鉄棒が出来ないこどもは晒しものにされ、ナワトビが決められた回数飛べないこどもは居残りで練習させられるのでしょうか(いまよみがえるトラウマ)。「能力でなく努力でこどもを評価すること」は、手間もかかるうえ、おそらく、その評価基準が明確でないため(生徒全員に腕時計型心拍計をつける、それだけでいいといえばいいのだけど、それを導入するには多くの困難があるでしょう)、難しいことだと思います。ですが、体育を楽しめるということは、運動と幸運な出会いをするということでもあります。それは良いことではないでしょうか。大人はそれくらいの手間をこどもにかけてもいいのではないでしょうか?
 …という話をお世話になっている運動療法士さんにちらっとしたら、「そうですね、わたしはそれを美術の授業のときに思いました。もっとちゃんと描きなさいって言われるの、つらかった…」とこちらもしんみり。そう思うと、能力でなく努力ではかってほしいのは、小学校の科目全部かもしれないなあ…。ていうか、必要とされるのは、個人の能力の正確な把握なんだろうけど、それがまだ限定される年代でないうちに決めつけることなく、さまざまな体験に気持ちよくこどもが出会えることを望みます。苦手はあってもしょうがない。でも、苦痛は可哀そう。
 全体的には、脳科学の本です。ちゃんとした研究の裏付けがあるとはいえ、そんなになにもかも運動でうまくいくのかなと思わせるくらいのポジティブな空気がみなぎっているため、ちょっと割り引いて読んでしまったのですが、面白いのは確かです。個人差が大きい分野でもあると思うので、なにもかもまるごと信じ込むのでなく、自分で判断しながら、取り入れることができるところから取り入れていくといいのではないかと思います。

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