「裏ヴァージョン」松浦理英子



 文庫版で再読しました。やはり、傑作です。こうなったらデビュー作の「葬儀の日」から読み直さないといけないのかと思ったほどに。
 ただ、まず最初に、アメリカを舞台にした読みきり形式の短編が続くので、これはなに?と思って挫折してしまうひとも多いのでは。松浦理英子の硬質な文体は、慣れてないと読みにくいところもあるので。けれども、作品がSM関係にあるレズビアンの恋人同士に関するものとなってきたあたりから、添えられるコメントが、作品への細かな確認と質問になっていき、この作品群は、職を失った元作家の友人を自分の家に住まわせることにした女性が、家賃代わりに書かせているものだという事実がはっきりします。そこらあたりから、この作品は、俄然と面白くなるので、どうかそこまで読んでみてください。
 二人の女性は、高校時代の友人なのですが、彼女たちがどんな絆で結ばれていたかというと、ずばり、男子同性愛に対する偏愛なのでした(作品中では「ホモセクシュアル・ファンタジー」と語られます)。もちろん、舞台となっているのはいまのようにBLも腐女子という言葉も存在したいなかった時代。そんな時代でも、少女達は、見目麗しい少年が同じ少年と絡み合うのを夢みて、熱っぽく語ってきた。再読してみれば、その部分はこの二人の関係を語るにあたって一番大きな要素ではなかったのですが(初読時はそれしか印象に残らなかった…)、二人はそれを軸にして、サディズムとマゾヒズムとまではいかないにしても、よりそこに近い友人関係を創りあげていきます。他人より敏感な感受性とそこから溢れる濃密な感情をもてあましてきた女性の、友人に向かうしかなかった切実な思いに、共感できるひとがどれだけいるかは分からないのですが、互いに性的魅力を感じないため、性で結びつくことはできないけれども、ただ一緒に居たいという思いは、執着であるけれど同時に誠実であると思います。こういう思いに辟易とした経験のあるひとにとっては、とても不愉快な作品かもしれないのですが。
 ひととひとが強く惹かれあうときに、性や血ではない部分で結びつくことはできないのか。二人の関係は広義での支配/被支配の関係でもあるので(初期JUNEの重要な要素ですね)、さらに互いの思いは交錯し、取り違いが起こり、うるわしい友情というものとはほど遠い関係の主導権を奪いあう複雑さを増していくのですが、やがてたどりついた結論は、終わりであって終わりでなく、おそらくはまだまだ続いていくのであろうということを示唆していて、それがまた嘘でないなという感じで、非常に腑に落ちました。
 
 非常に仕掛けが多い作品です。メタっぽいし、トリックがあちこちに隠されている。ですが、それに幻惑されるだけでなく、その仕掛けによって浮かび上がってくるゲームに隠された、人間関係のひとつのかたちに目を向けてほしいなと思いました。女同士の友情というと、男性が絡んで破綻したりそれでもわたしたち友達よ、という感じのものか、男子なんかいらないわというシスターフッド的なものか、互いの条件や生き方をを比較しあって惹かれたり憎んだり、というものになるのかなと思うのですが、この作品は、それらのどれでもありません。けれども、リアルです。そして大体において、リアルなものとは、醜いものでもあるのですが、女同士の友情について考えたことがあるひとには、ちょっと読んでもらいたい本だと思いました。もちろん、単純に小説としても、とても面白く刺激的な一冊です。

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